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スペインバスク地方とETAについてのblogです!でも最近は就活のこともupしたりしてます☆ぜひぜひコメント残していってください!


by remona121
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<   2007年 01月 ( 9 )   > この月の画像一覧

完成しました!

明けましておめでとうございます! 去年に引き続き、みなさん今年もよろしくお願いします☆
さて、締め切りを明日に控えていた卒論がやっと完成し、今日提出してきました!
このblogはゼミの研究過程書いていくために始めたので、その集大成として、ここに卒論も載せたいと思います。興味があれば読んでみて下さい^-^
by remona121 | 2007-01-09 22:13 | 卒業論文

概要

           概要 バスク・ナショナリズムとETA
 

 日本は周囲を海に囲まれた島国である。そのせいもあってか、他民族との交流は少なく、日本独自の文化を築き上げ、単一民族国家として現在に至るまで長い歴史を歩んできた。
 一方、スペインは多民族国家であり、バスク自治州やカタルーニャ自治州における民族意識はとても強く、彼らはスペインからの独立を目指している。それらの地域では国家公用語であるカスティーリャ語のほかに、バスク語やカタルーニャ語などの自治州独自の言語を公用語とし、さらにバスク自治州とナバーラ自治州では徴税権も認められている。
 バスク地方は本来、人類学的に珍しい特質を持つバスク人が住み、他のどの言語とも構造が異なるバスク語が用いられていた。しかし、19世紀の工業発展に伴い、バスク地方には大量の労働者が移入し、それはバスク人に独自の言語や文化を失う危機感をもたらせた。このような社会的変化が原因となり、ナショナリズム運動を開始することになる。
 本論では、バスク・ナショナリズムの起源や歴史について調べる。また、バスク民族組織ETAについて、結成された理由、彼らの思想、現在に至るまでのテロ活動などについて明らかにしていく。最後に、現在のバスクとスペイン政府の関係、バスク人の民族意識を決定づけるうえで重要な要素であるバスク語についても考えていきたい。



        Resumen El nacionalismo de País Vasco y ETA


Japón es un país rodeado del mar. Por eso, había poco intercambio cultural entre Japón y otras etnias. Hemos tenido una larga historia como el estado unitario.
Mientras tanto, en España hay unas etnias. Especialmente en el País Vasco y Cataluña, siguen vivos los nacionalismos, y hacen un movimiento de independencia. En estas autonomías, además del castellano (la lengua oficial de España), el vascuence o el catalán son autorizados como la lengua oficial de la autonomía. El País Vasco y Navarra tienen derecho a cobrar de impuestos.
Originalmente, en la área vasca, los vascos vivían y hablaban su lengua original que es diferente de la estructura de otras lenguas. Pero en el siglo diecinueve, con la evolución industrial, muchos trabajadores inmigraron en la área vasca desde otras provincias. Esta situación trajeron a los vascos una conciencia del estado de crisis a perder su lengua y cultura. Por eso, ellos empezaron el movimiento de independencia.
En esta tesina, pongo sobre el tapete el nacionalismo del País Vasco. Explico la historia del nacionalismo y ETA (Euzkadi ta Azkatasuna). Además, explico las relaciones actuales entre el País Vasco y el Gobierno de España, y también el vascuence que es el símbolo del nacionalismo en el País Vasco.
by remona121 | 2007-01-09 22:12 | 卒業論文

1.バスクとは

1.バスクとは

1.1.バスク地方

 バスクとはスペインの自治州のひとつで、アラバ、ギプスコア、ビスカヤの3県で構成されている。ピレネー山脈の西方にあり、スペイン語では「パイス・バスコPaís Vasco」、バスク語では「エウスカディEuskadi」と呼ばれる。スペインの人口4千万人のうち、バスク自治州に208万人、ナバーラ自治州に56万人が居住している。(2001年)
 また、スペインのバスク自治州に限らず、「バスク人の住んでいるところ」をバスクと定義する考え方もある。その場合、スペインのナバーラ自治州とフランスの3領域(スール、バス・ナバーラ、ラブール)を合わせた計7地域をバスクと呼ぶ。これら7地域はそれぞれ独自の歴史を歩んできた。そして、実際7地域が1つの独立した政治共同体を構成したことは、歴史上ほぼ皆無に等しい。その原因として、7地域が2つの国にまたがっていることが、独立を考えるときの大きな妨げの1つになっていることは確かだろう。「7つは1つZazpiak Bat」というスローガンが叫ばれるなか、7地域が「バスク地方」であるという意識、バスク民族としての一体感を持つようになったのは、実は19世紀末以降のことなのである。この意識の高揚、一体感の高まりが現在まで続くバスク・ナショナリズムの原点である。長い歴史を有していそうなバスク・ナショナリズムだが、その歴史はたかだか100年余りなのである。


1.2.バスク人

 「バスクBasque/vasco」という呼び名は、バスク人以外の人がバスク人を指す他称である。バスク人の自称は「バスク語を話す人々」という意味の「エウスカルドゥナクeuskaldunak」であり、また「バスク語以外を話す人々」を「エルダルドゥナクerdaldunak」という。バスク人の顔相には、鼻の長い中顔、額はこめかみの部分が広く、下あごに向かって狭くなる、という特徴がある。形質人類学的観点からバスク人を見てみると、血液型はスペイン人に最も多いA型は少なくO型が圧倒的に多い。またRhマイナス遺伝子頻度が0.5を越す、世界的にも珍しい特徴を持つ。近現代では、人口の移出入によりこの結果は多少変動するが、その傾向に変わりはない。バスク人の起源は、「原ヨーロッパ人」といわれている「ケルト族」よりも古く、現生人類クロマニョン人が先祖であると考えられているが、その系譜は以前明らかにされていない。


1.3.バスク語

 バスク語を話す人々をバスク人とし、バスク人が住む領域を「エウスカル・エリアEuskal Herria」であると自己定義するように、バスクとは何かを知るためには、バスク語が原点の一つにあることが分かる。「エウスカラeuskara」と呼ばれるバスク語は、スペイン語やフランス語などラテン語に起源を持つロマンス語の言語に囲まれているにもかかわらず、その構造はまったく異なり、世界のどの言語にも類を見ないきわめて独特な言語である。バスク語の起源についてはさまざまな説があるが、あくまで仮定に過ぎず決定的な証拠がないため、言語学上孤立した言語(言語的孤島)に分類される。しかしながら、日本語とその文法構造が似ていて、日本人にとって習得しやすい言語といわれている。
 また、バスク語は8方言に大別される。バスクの集落はピレネー山麓とその合間にある渓谷、またビスケー湾の入り江に点在しており、方言の分布と集落の分布はほぼ一致している。しかし、このように方言が分かれていても、彼らは自分たちを「バスク語を話す人々」という同胞意識を持っていた。
 なお、バスク語の起源を定められないのは、バスク語が16世紀中頃に至るまで、文字の記録を残さなかった口承言語だからである。そのため表記の上ではラテン語のアルファベットに頼らざるを得ず、隣接する言語の影響を強く受けるようになっていく。バスク語本来の語彙の中には抽象概念を表す語や、最近使うようになった道具などを表す語が存在しない。そのため、それらを表すのに、ラテン語とそこから派生したスペイン語やフランス語などのロマンス語系言語からの借用が多く見られる。しかし、その起源についてはやはり謎に包まれたままであり、このことはバスク人を特異な存在に際立たせている。
by remona121 | 2007-01-09 22:09 | 卒業論文

はじめに

はじめに

 日本は周囲を海に囲まれた島国のせいもあってか、他民族との交流は少なく、日本独自の文化を築きあげ、単一民族国家として長い歴史を歩んできた。そのため多くの日本人は、日本に生まれ育った=日本人であると考え、自分が日本人であるということに何の疑問も持たず、日本語を話し、日本国内で不自由なく暮らしている。
 一方、スペインは多民族国家であり、バスク自治州やカタルーニャ自治州における民族意識はとても強く、彼らはスペインからの独立を目指している。彼らの一部は自らをスペイン人である前にバスク人である、またはカタルーニャ人であると考えている者もいる。それらの地域では国家公用語であるカスティーリャ語のほかに、自治州独自の言語を公用語とし、さらにバスクとナバーラ両自治州では徴税権も認められている。
 本論では、スペインのなかでも、バスク地方のナショナリズムに焦点を当て調べていく。バスク・ナショナリズムは誕生から現在に至るまで、時代的・地域的にさまざまに変容し、多様な主義主張が存在する。その歴史や変容過程、バスク民族組織ETAについて、結成された理由、彼らの思想、現在に至るまでのテロ活動などについて明らかにしていく。最後に、現在のバスクとスペイン政府の関係、バスク人の民族意識を決定づけるうえで重要な要素であるバスク語についても考えていきたい。
by remona121 | 2007-01-09 22:09 | 卒業論文
2.バスク・ナショナリズムの誕生と拡大

2.1.バスク・ナショナリズムの誕生

 バスク・ナショナリズム誕生の主な要因は、バスク地方のフエロ(地域特別法)撤廃(1876年)と、19世紀後半の工業化発展にともなうバスク社会の変容だと考えられている。
 スペイン王位継承問題に発した第一次カルリスタ戦争は、バスク地方を拠点とするカルロスと彼の支持者であるカルリスタ側の敗北に終わった。1841年にはナバーラがスペインへ統合され、ナバーラはスペイン国内でフエロを存続させていく。第三次カルリスタ戦争が終結すると、1876年憲法によって、中央政府により王政復古体制の基盤が築かれた。そして、1876年7月21日法で、バスク3県(アラバ・ギプスコア・ビスカヤ)のフエロは全面廃止され、バスク3県はスペイン国家の1地域、つまりスペイン中央政府の1行政単位となり、中央政府に対し納税・兵役等の義務を負うことになった。
 その後バスク地方は中央政府下で、従来から蓄積されたバスクの金融・商業資本を製鉄に投資し、隣接するアストゥリアス地方の石炭と結合してイベリア半島で屈指の重工業地帯へと成長していく。しかし、その工業化とともに、旧カスティーリャ、ガリシア、アンダルシアなどからの移民労働者が大量移入してくる。1877年から1900年の間に、バスク3県の人口は45万人から60万人へと増加した。とくにビスカヤへの移入者が多く、1900年代に入ると首都ビルバオでは人口の47.2%もの人がバスク地方以外からの移住者によって占められるほどだった。
 このような急激な移民労働者の増加は、伝統的なバスク社会や生活を破壊し、バスク語が日常生活から離れるのを加速させた。これはバスクの人々に、独自の文化や言語の消滅につながるとの危機感をもたらした。このような危機感がバスクの人々に、自分たちは「バスク人」であるという意識を目覚めさせることになる。この意識を政治的に操作したのが、バスク・ナショナリズムである。そして彼らは、バスク語とバスク文化の保持・地方自治権をスローガンに、サビーノ・デ・アラーナを中心としてナショナリズム運動を開始することになるのである。
日本にいて、自分が日本人であると意識する機会が少ないように、その当時、バスク人も自分たちがバスク人であるという強い意識を持っていたわけではなかった。彼らは非バスク人の大量流入によって、彼らとの言語や文化の違いから、自分たちがバスク人であることを意識するようになったのである。そして、町のおよそ半分が非バスク人で占められたこの状況が、自分たちの文化や言語が失われる不安や危機感を抱かせ、ナショナリズム運動を開始することになったのは自然の流れといえるだろう。


2.2.サビーノ・デ・アラーナの思想

 19世紀に誕生したバスク・ナショナリズムはサビーノ・デ・アラーナを中心として展開された。バスク・ナショナリズムのイデオロギー創始者でバスク・ナショナリズムの父と呼ばれているサビーノ・デ・アラーナは、1865年にビスカヤの中心都市ビルバオに生まれた。教育熱心だった両親のおかげで中等過程に進学するのを契機に全寮制の中等過程に入学し、そこでの生活を通して彼の確固たる思想を形成したといわれている。その後、バルセロナ大学に進学し、在学中にカタルーニャの独立運動に共鳴し、ビスカヤに戻ってからはバスク地方の歴史や文化・バスク語の研究を始めた。研究を通して、他のバスク地域でもビスカヤと同じように、自分たちがバスク人種「エウスコタルEuzkotar」であるという共通の意識を持つことを発見し、バスク地方をバスク国家群が構成する連邦国家として、エウスコタルの祖国「バスク国Euskadi」とした。
アラーナは1893年にララサバル・デ・バゴナで初めて政策演説を行い、政治運動の目的はバスク地方の独立であるという展望を明らかにした。翌1894年には、バツォーキ・バスク人民センター(Euskeldun Batzokija)を創設し、これが1895年のバスク民族主義党(PNV)へと発展する。
 「バスク語、バスク文化、バスク民族の主張」という彼の思想は彼が亡くなった後も受け継がれていった。しかし、彼は晩年に「バスク地方の政治的自治の主張」へと思想を転換したため、彼の思想は後継者たちによって多様に解釈され、PNV内では分離独立志向の伝統保守派と地方自治志向のブルジョワ・リベラル派という2つの派閥を生み、今日に至るまで分岐と合流を繰り返している。アラーナの思想はバスク・ナショナリズムの基礎を築いたと言われるが、全バスク人から支持を得ていたわけではない。ナショナリズムが誕生した当時から、ナショナリストとそうでない者とが存在したことも忘れてはいけない。
 しかし、彼が最初にバスク・ナショナリズムのあり方を定義づけ、彼の思想をもとにその後の活動が展開された。その点においては、やはり彼が「バスク・ナショナリズムの父」と呼ばれるのにふさわしい人物なのだろう。


2.3.初期のバスク・ナショナリズムとPNVの活動

 既に述べたように、19世紀後半にはビスカヤを中心にバスク地方は工業発展し、大量の労働者が移入してきた。このバスクの工業発展は、スペイン近代化で大きな役割を果たし、ビスカヤはスペイン経済を牽引するほどに成長した。一方、労働移民の増加により、貧しい労働者や農民があふれ、また工業資本家とプロレタリアート(労働者階級)との対立が激化し、労働者組織が結成されるようになった。彼らはのちにビルバオを中心としたバスク工業地帯を拠点に、反工業化を唱えて社会主義運動を展開するようになる。このような初期バスク・ナショナリズムは、1930年以前にはビスカヤ特有の現象であった。1904年にはギプスコアに、1907年にはアラバにもPNVの拠点が開設されたが、ギプスコアには第二共和制期( ※1)、アラバにはスペイン内戦ごろまで、その政治的影響力は及ばなかった。
 また、初期バスク・ナショナリズムは、都市部と農村部で温度差が見られた。なぜなら、初期バスク・ナショナリズムは消滅しつつあるバスク伝統の回復を求める都市現象であり、伝統が守られている農村部ではそのような運動は必要なかったからである。しかし、徐々に農村部でも近代化が進むと、人々はナショナリズム運動を通して、自分たちの伝統・文化を再認識していった。
 このように、初期のバスク・ナショナリズムは地域的に多様で、バスク内部でもナショナリズムに対する意識は同じものではなかったのである。
 20世紀初頭、PNV内部では分離独立派と地方自治派の対立が激化した。1908年の党大会では、バスク語・バスク文化の主張というアラーナの初期の思想が再確認されたが、その後、彼の晩年の思想である「スペイン国家内部での独立」が公認され、PNVの政策はバスクの地方自治へと修正された。これを受け、サビーノ・デ・アラーナの兄ルイス・デ・アラーナはこの政策に反対し、1915年にPNVを脱退している。また、分離独立派が再び分離し、ルイス・デ・アラーナとともに新PNVを結成する。1916年には、PNVはバスク・ナショナリスト協同団(CNV)へと改名し、その活動範囲を政治のみならずさまざまな社会領域へ広げていった。このように、CNVと新PNVに分裂していたが、1930年11月16日に再びPNVとして統一される。しかし結局、同月30日にCNVの流れを汲む一団が、保守派の打破を目指して分派し、バスク・ナショナリスト行動党(ANV)を創設することになる。
 バスク・ナショナリズム継承のために、青年層と女性も参加させられた。1904年には約400人のバスク人青年を集めてバスク青年団が結成される。彼らは、バスク・ナショナリズム運動が弾圧され停止させられたプリモ・デ・リベーラの軍事独裁政権期( ※2)に、カトリック教会の任意団体と偽り密かに運動を続け、音楽と舞踊を通してバスク・ナショナリズムの思想を継承する役割を担った。彼らはバスク・ナショナリズム運動の中核ともいえる組織であり、後にバスク独立派と連帯していく。また女性層は、1922年にバスク女性愛国会議(EAB)を発足させ、バスク・ナショナリズムの家庭への普及を促したといえる。
 バスク・ナショナリズムの政治的中心を担うPNVだが、ナショナリズムに対する意識の違いから派閥を生み、脱退する者や新組織の結成は繰り返されていく。しかし、PNV無くしては、今後のバスク・ナショナリズムの存続はなかったといってもいいだろう。


2.4.自治憲章・自治政府の成立

 1931年4月、統一地方選挙が行われ、その結果、王政が廃止されスペイン第二共和国政府が誕生した。共和制は地方分権に寛容で、バスク語の教育・文化にとって有利に働き、バスク・ナショナリズム運動が一気に再開した。また、PNVは共和国政府にバスク地方自治を認めさせるよう計画していた。PNVの新代表ホセ・アントニオ・アギーレは、1931年6月にバスク3県とナバーラ県の市町村長を集め、バスク4県をほぼ独立した国とする内容の自治憲章(エステーリャ憲章)案を作成する。そして、バスク4県の市町村長、全528票中427票の賛同を獲得し、この憲章案を国会へ提出した。 しかし、この憲章案は却下される。その一方で、共和国政府は1931年12月8日にバスク自治憲章案の作成方法を定め、バスク4県では再び自治憲章作成が進められ1932年3月に完成する。しかし、この憲章案はナバーラの賛同を得られず、ナバーラは他のバスク3県自治州への併合を拒否したのである。
 バスク3県から賛同を得たものの、憲章案の承認はなかなか進展しなかった。1936年、再び総選挙が行われ、人民戦線派が勝利した。そして、人民戦線とPNVの間でバスク自治憲章をめぐる合意が生まれた。同年7月、スペイン内戦が勃発する。PNVは自治憲章案の成立を信じ、人民戦線率いる共和国側に忠誠を誓った。そして、スペイン内戦勃発からおよそ3ヶ月後の10月1日、バスク自治憲章が国会でようやく可決され公布されるに至った。自治憲章が可決された6日後にはホセ・アントニオ・アギーレを初代大統領としてバスク自治政府が誕生する。彼はゲルニカにある聖なるオークの木の下で大統領の宣誓を行い、バスク自治政府が成立したのである。
 ゲルニカのオークの木とは何か。バスク人は、もともとオークの木の下で誓い合う習慣を持っていた。15世紀には、カスティーリャ王がバスク内のそれぞれのオークの木の下で、地方の習慣に口を挟まないことをフエロ(地域特別法)に宣誓し、バスク地方は自治を得た。そのため、オークの木はバスク自治獲得の原点となっている。また、現在オークの木がゲルニカだけに残っているため、バスク自治の象徴とされ、聖なる木といわれているのである。
1937年6月19日のフランコ軍の攻撃によってビルバオが陥落すると、同月27日にはビスカヤとギプスコアの地方自治権を廃止し、バスク自治政府は亡命政府となってしまう。その後、亡命政府はバルセロナ・フランス・ニューヨークと活動拠点を移動するが、もはや政治的な力は残っていなかった。
 このように、短期間で自治権を失ってしまったバスク自治政府だが、一時的でも自治政府を成立させたことはバスク・ナショナリストに自信を与えることになり、彼らはその後も活動を続けていくのである。
 スペイン内戦後、アギーレはバスク大統領として、フランコの法廷で死刑が確定していた。しかし、亡命生活を続け、戦後パリに亡命政府をつくり、バスク民族がバスク民族として生きることができるよう努力した。そんな中、1960年にアギーレは急死してしまう。その後、彼の期待とは反対に、国際社会の中でフランコが徐々に受け入れられ、実力で事態を解決しようというETAが誕生し、バスクは変わっていった。


2.5.バスクとスペイン内戦

 1936年7月18日、スペイン各地で軍のクーデターが勃発、フランコ将軍がクーデター宣言を行い、スペインは2年8ヶ月に及ぶスペイン内戦に突入する。スペイン本土は共和国政府地域と反乱軍(フランコ軍)地域に分割され、バスク地方も二分された(ビスカヤとギプスコアが共和国側、アラバとナバーラがフランコ側)。既に述べたように、PNVは自治憲章を成立させるべく共和国政府に忠誠を誓った。
 フランコ将軍は全面戦争の最初の標的としてゲルニカを選んだ。ゲルニカが標的とされた理由は、ゲルニカがバスクの文化的伝統の中心地であり、アギーレが大統領の宣誓を行った場所で、バスク自治の象徴とされる聖なるオークの木があるからだろう。また、バスク地方の鉄鉱石や重工業施設は、ドイツの垂涎の的だった。1937年4月26日、ドイツのコンドル飛行部隊による空爆で、ゲルニカは町の71%を焼失し、人口7000人のうち約2000人(28.6%)が犠牲になった。このゲルニカ爆撃の知らせがフランコに伝わると、彼はその責任を否定し、バスク軍が自らガソリンを撒いて破壊したのだ、という声明を発表した。その後、パリにいたピカソがこの事件を聞き、爆撃で亡くなった人間や動物をモチーフに、パリ万国博のスペイン館の壁画に描いた作品が、あの有名な『ゲルニカ』である。ピカソはフランコのファシズム体制を嫌って、『ゲルニカ』のスペイン搬入を許さず、この絵は長い間ニューヨークの近代美術館に展示されていた。スペインに返還されたのは、フランコの死から6年経った1981年のことである。
 ゲルニカ陥落後、バスク軍の最後の拠点であるビルバオもドイツのコンドル飛行部隊による空襲を受け、1937年6月19日に陥落する。そして27日には、共和国陣営を支持したビスカヤとギプスコアの地方自治権が廃止され、バスク自治政府は亡命政府となる。一方、フランコ陣営を支持したアラバとナバーラでは経済協約などが温存された。
 フランコにより自治権を廃止されたバスクでは、バスク語は禁止され、そればかりか「バスク的なもの」すべてが禁止された。厳しい弾圧はかえってバスク地方内部での、「バスク民族意識」の高揚、継承につながった。しかし他方では、内戦を体験していない若い世代の中から、敗戦後のPNVの無力さを批判し、過去の「バスク民族意識」に反発する動きが見られるようになってきた。このような若い世代は、1952年にビルバオでEKIN(着手)を結成して、地下活動を始める。そして、PNV青年部との協力、またイデオロギー対立からの分裂を経て、1959年7月31日に「バスク祖国と自由(ETA=Euskadi Ta Askatasuna)」が結成されることになる。フランコ体制による武力弾圧から自分たちを守るために、彼らにとってなくてはならない組織だったといえるだろう。スペイン内戦は、勝った側の人々にとってはすでに昔の話となっているかもしれないが、敗れた共和国側、とくにバスクでは、いまだにそのことが忘れられていない。内戦のとき、バスク人はバスク人であることが罪とされ、すべての自由を奪われたことを考えれば、当然のことである。また、スペイン内戦でのゲルニカへの空襲やフランコ政権による徹底した弾圧は、逆に彼らの感情を逆なでし、その後の強い独立志向へとつながっているといえるだろう。



※1:1930年、バスク地方のサン・セバスティアンに共和主義者が集まり君主制を倒し共和制を樹立しようとする協定が結ばれ、1923年から軍事独裁政治を行っていたプリモ・デ・リベーラ将軍が失脚する。翌1931年の総選挙で左派が勝利すると、リベーラ将軍のもとで王制を行ってきた国王アルフォンソ13世は国民の支持を失い亡命し、アサーニャを首相にした第二共和制政府が成立する。1933年の総選挙では右派が勝利するが、1936年の総選挙では、再び左派が勝利し、アサーニャ率いる人民戦線が成立した。これに対し、人民戦線に反対する軍部・地主・教会に支持されたフランコ将軍は同年7月にスペイン領モロッコで反乱を起こし、3年間にわたるスペイン内戦(1936年7月~39年3月)が始まるのである。

※2:第一次世界大戦後のスペインは不景気となり、労働運動が激化し政治的混乱が続いていた。このような状況の中で、1923年9月、プリモ・デ・リベーラ将軍が、軍部や教会を中心とする大土地所有者の支持を得てクーデターを起こし成功させた。その後、国王アルフォンソ13世により首相に任命され、軍事独裁政権を樹立し、反王政派を弾圧するなどの反動政治を行った。しかし、1927年の世界恐慌の影響で、スペイン社会が混乱に陥ると反独裁運動が起こり、1930年に失脚し独裁政権は崩壊した。
by remona121 | 2007-01-09 22:08 | 卒業論文
3.バスク祖国と自由(ETA)

3.1.ETAの思想
 
 バスク民族意識を抑圧するフランコ体制に対抗する組織として1959年に結成されたETAは、「いかなる政党、組織、機関からも独立し、祖国愛に基づく抵抗によって創設された、バスク民族解放のための革命的運動」と自己定義され、結成されてから分裂・統合を繰り返していくことになる。
 結成当時のETAは組織化の時期であり、民族文化復興の動きが強く、過激な独立闘争は見られなかった。むしろ、バスク語の擁立、バスク大学の創設を訴えるなど、アラーナの初期思想に共通するものがあった。しかし、その後のETAの方向性は、バスク語アカデミー事務局長のクルトヴィヒの影響を大きく受けるようになる。クルトヴィヒは1963年に著書『バスコニア』を出版している。アラーナがバスク民族の独自性を定義づける客観的要素として、①血族、②言語、③統治と法、④気質と習慣、⑤歴史的人格の5つを挙げたのに対して、クルトヴィヒは①言語、②心性と文化、③宗教、④人種的構成、⑤経済的・社会的・物質的要因の5つを挙げた。こうして、バスク語こそがバスク民族存在の証であり、バスク・ナショナリズム運動の象徴であるとし、バスク語復権のために行動することが需要であるとされた。
 バスク語復権運動の指標となったのが、バスク語アカデミーである。方言分化の著しいバスク語は河川をひとつ隔てただけでも違いが生じるほどで、バスク語の存続のためには正書法の整備が不可欠であった。そこで、バスク語アカデミーは1968年から正書法「統一バスク語euskara batuna」の制定作業を行った。その後現在に至るまで、バスク語教育の現場では、この統一バスク語が教えられている。
 1950年代以降、スペインは高度経済成長期に入る。重工業地帯を持つビスカヤ・ギプスコアには50年代後半から、また新工業地帯を立地させたアラバにも60年代から、非バスク系労働者が移入してくるようになる。バスク3県以外からの移入者の数は60年代に22万6000人を超え、住民のプロレタリアート化が進んだ。つまり、バスク・ナショナリズムは再び移入労働者の問題に悩まされることになったのである。しかし、19世紀後半の反工業化を唱えた初期のナショナリズム運動と異なることは、ETAがバスク民族解放と労働者階級解放の連帯を図り、労働者階級解放を優先させたことである。そのため、ETAのナショナリズムには、バスク人のみならず、非バスク系労働者も動員された。また、バスク地方に住んでいるだけで「バスク人」として弾圧を受けたことも、非バスク系労働者がETAのナショナリズムに参加した理由の1つである。


3.2.ETAのテロ活動

 フランコによる厳しい弾圧の中で、「自分たちはバスク人である」という強い民族意識が高揚した。集会などを通してその意識はさらに高まり、壁画やバスク語による落書きなど「バスク的なもの」が公共の場に目立つようになってくる。また、都市部旧市街においては、バスク・ナショナリストと警察当局の衝突の場となった。
 その衝突の過激さを増したものが、ETAの武力闘争である。1961年、旧フランコ派の兵士たちが乗った列車への爆弾テロ行う。未遂に終わったが、これが最初の武力闘争であり、これにより警察当局によるETA狩りが本格化する。1968年、メリトン・マンサナス警部を暗殺。最初の犠牲者を出した事件であり、ここからETAの武力闘争は暗殺テロへと変わっていく。1973年、「ETAを壊滅する」という対ETA闘争宣言を発表したカレロ・ブランコ首相を暗殺。1974年、ETAが最初に起こした無差別テロであるローランド爆破事件などがある。
 これらの事件は一部の過激派指導者によるものとされているが、ETA全体のイメージを悪くし、ETA反対キャンペーンが高まる原因となるため、ETA内部でイデオロギー対立が起こりETAは大きく2派に分裂することになった。政治を無視した武力闘争のみを求める少数派グループであるETA-M(ETAミリタール)、政治的に大衆闘争を求める(政治闘争と武力闘争を同じ割合のもとに行う)ETA-PM(ETAポリティコ・ミリタール)である。この後、ETA-PMも銀行強盗や企業要人の誘拐などを行うようになり、ETA-PM内部でも過激派と穏健派に分裂することになる。
 1979年の自治政府の発足により、テロ活動は沈静化するかと思われたが、実際は1980年代に入り激化していく。また、このころには無差別テロの傾向が強くなり、観光地を狙ったテロを繰り返した。しかし、これらの爆破は観光客に死傷者がでないほどの小規模なものだった。そのような爆破を行う理由は、1.政治的要求が公表できるから、2.いずれも事前に警察当局に予告することで、大きな注目を集めることが出来るからである。彼らの目的は、独立のために戦う自分たちの姿を世界中に示すことであった。そのため、大規模な爆破で被害者を出すことは、1.ETAの過激な活動に反対する政府キャンペーンを高めることになる、2.スペインにおいて国民の支持が得られなくなる、3.バスク地方での信頼を失いかねない、というリスクをともなう。彼らが事前予告をして小規模テロ活動を繰り返す理由はここにあるのだろう。


3.3.反テロリスト解放グループGAL

 1983年、過激派テロ組織であるETAをテロする組織GAL(Grupos Antiteroristas de Liberación=反テロリスト解放グループ)が創設された。 これはテロ活動が活発化し犠牲者が急増している状況に対し、スペイン内務省が極秘に創設したものである。GALの創設は1983年だが、実際はその10年ほど前から「反ETAテロ組織」がスペイン内務省によって結成されていて、GALはその延長に創設された。
 創設後、GALはフランス警察当局へ協力するように正式要請をした。なぜなら、国境を越えればスペイン警察の手が及ぶことはないので、ETAの本部がフランスにあったのである。フランスの協力もあり、GALは解散(1987年7月)までの約4年間にフランス側バスク領内で、ETA活動家に対して40件の攻撃を行い、27名を暗殺、27名を負傷させた。
 GALのメンバーはフランス・英国・アルジェリア・ポルトガルの4カ国から20数人を集めて構成されていた。彼らは標的とした人物の重要度により、一人暗殺につき最低200万ペセタから最高1000万ペセタの報酬を支払うことを約束されていた。この活動資金源は公式には明らかにされていないが、ほぼ間違いなくスペイン内務省だと考えられている。GAL解散までの約4年間に、スペイン内務省がGALに投入した資金総額はおよそ40億ペセタといわれており、これは臨時に雇った暗殺実行部隊のメンバーに報酬として支払われたようだ。使用した武器は主にライフル銃、カービン銃、およびピストルで、車爆弾も使用された。これらのテロ方法はETAと同じである。
 当初GALは身元不明の極右テロ集団といわれていたが、最高責任者とその部下の逮捕により、政府とのつながりが問題視され、自動的に解散せざるを得なくなったのである。逮捕された二人はそれぞれ懲役100年以上の極刑に処せられ、政府側にも調査が入り、解散せざるを得なくなったのだ。
 政府の関与が明らかになった後も、政府はその事実を否認し続けた。テロに対抗するために政府がテロを選らんだという衝撃的な事件は、スペイン国民に不安をもたらせ、事実を認めなかった政府の態度に怒りを覚えたに違いない。そして、GALを創設した社会労働党政権は1996年の総選挙で政権交代を余儀なくされた。この結果は、政府への不信感の増大、GALを正当化することはできないという国民の冷静な判断、ETAのテロに対し有効な政策が取れなかった不満感などが原因となって引き起こされたものだろう。


 3.4.ETAの資金源

 ETAの主な資金源は、革命税、身代金、銀行強盗、武器取引、内部誌の発行などである。 その中でも、ETAの資金のほとんどを補っているのが革命税だ。革命税の取り立てには、まずETA執行委員会の組織である財政機構で、革命税の支払いを強要する人物または企業が選ばれる。そしてその人物または企業についての資産調査が行われる。次にそれを財政機構で協議し、最終的な要求額と支払い金額を決定し脅迫状を送るのだ。脅迫状を送られる人物、企業はバスク人またはバスクの企業といわれる。革命税の相場だが、企業もしくは経営者は平均5000万~1億ペセタ(7000万~1億4000万円)。医師、弁護士、自由業は平均500万~1000万ペセタ(700万~1400万円)。この金額は支払いを要求された人物または企業の総資産のうち1~5%。つまり先述したように、資産調査がしっかり行われ、革命税の支払いによって経済的負担や破産したりすることのないように配慮されているのである。一方、革命税を要求されると、要求された人物または企業は、金額を少しでも減らすためにETAメンバーと直接交渉するのが慣例となっている。この交渉によってかなり安い支払いで済む場合もあるらしい。基本的にETAは3回まで手紙で脅迫してくる。交渉により減額されることもあるが、3回の脅迫状を無視して支払わなければ、自宅や会社に爆弾を仕掛ける、または暗殺は免れないようだ。ちなみに、1984年7月の週刊誌「Euskadi」のアンケートによると、バスク地方の企業経営者のうち71%はすでに革命税を支払ったという報告もある。
 革命税の次に重要な資金源が身代金である。もちろん誘拐によって請求するものである。その標的は大企業の経営者や銀行のオーナーなどで、もちろん、ほとんどはバスク地方出身者である。身代金の平均相場は6億ペセタ。革命税とは比べものにならない額である。また、交渉による減額もほとんどないといっていい。一括払いだけでなく、分割払いという選択肢もあるようだが、すでに身柄が拘束されているので支払わないと確実に命は狙われることになる。簡単に資金稼ぎができる銀行強盗も資金源の1つだ。スペインはヨーロッパ諸国の中で最も銀行強盗の発生件数が多い国である。一般犯罪者による事件もあるが、ETAによる犯行も多いとされている。
by remona121 | 2007-01-09 22:07 | 卒業論文
4.ポスト・フランコのバスク

 4.1.自治州の誕生

 1975年、フランコが亡くなり、長年のETAとフランコの戦いは終わった。フランコ後の民主化により、1978年に新憲法が制定されたスペインでは、地方自治国家建設に踏み出し、バスク地方にも自治政府の設立が承認された。1937年にフランコに自治権を奪われてから実に40年ぶりのことである。また、同年9月にはバスク自治憲章がスペイン国会で承認された。この憲章に対するバスク3県での住民投票率は6割を超え、9割の賛成が得られた。そして、1980年3月に行われたバスク議会選挙の結果、PNVが第一党となり、4月30日には自治政府が発足する。PNVは地方自治を初めて単独で掌握したことになる。バスク自治州の領域は、アラバ・ビスカヤ・ギプスコアの3県で構成され、ナバーラについては、ナバーラが望むならバスク自治州への統合が可能とされた。しかし、ナバーラは1982年に単独で自治権を獲得し自治州となったため、バスク自治州へ統合されることはなかった。
 自治憲章の内容は、治安警察に代わりバスク自治警察の創設(第17条)、経済協約の復活(第41条)、イクリーニャをバスク自治州旗とする(第5条)などがある。また、第6条では、バスク語をカスティーリャ語とともにバスク自治州の公用語と定め、二言語公用語体制が認められた。


4.2.バスクとスペイン政府

 民主主義の回復と自治権が拡大しても、ETAのテロ活動を止めることはできなかった。まず彼らは、MLNV(バスク民族解放運動)とその政治部門のHB(民衆連合)を結成した。また、MLNVの指導権はKAS(社会主義祖国調整機関)が握り、KASはETA-mなどの左派集団で構成されていた。KASに参加しているグループは、その運動の取締りが強化されると、組織名を変えたり、改変したりして活動を続けていった。バスク人にとって、これらのETAの活動は、「バスク人である」という点においては共通の感情を持っているが、否定的な感情がその大半を占めていた。しかし、その中でもETAの支持者が集まるのは、1970年代のバスク地方の経済不況が原因になっていると考えられる。1973年の石油危機以来の長引く不況、失業率の増加、政治・社会混乱の中で、ETAの反国家精神は人々の不満のはけ口となっていたのである。一方、バスク自治政府は地方自治体制下で、州の公用語と認められたバスク語の普及、バスク自治警察の創設などに力を入れて、州独自の行政を展開していった。また、1982年のスペイン総選挙の結果、勝利した社会労働党政権(首相:ゴンザレス)は、継続するテロ攻撃に対して、内務省内に秘密組織GAL(反テロリスト解放グループ)を創設し、1987年までのおよそ4年間にわたり、ETAメンバーの殺害が相次いだ。政府がこのような不法な活動に関与していたことは長年証明されず、GALの犯罪行為が裁かれたのは1998年になってからのことである。
 1996年の総選挙で、保守派の国民党政権(首相:アスナール)が誕生した。アスナール政権はETAの包囲網を強化し、HBとETAが同じ組織の表裏であることを明らかにし、両組織の活動の資金源とみられる、日刊紙「エギン」を98年7月に強制的に発行停止とした。
 ETAのテロ路線がスペイン全体のみならず、バスク地方の住民の離反を招く大きなきっかけとなったのが、1997年7月にビスカヤ県エルムア市の議員ミゲール・アンヘル・ブランコの誘拐殺人事件であった。殺害予告時間前に、市民による訴え、テレビやラジオによる訴えを斥け、彼は殺害された。これを受け、マドリッドやバルセロナなどで200万人以上の抗議デモが行われ、ETAの孤立が決定的になったのだ。この状況を打開するためか、ETAは翌1998年9月に無期限・無条件停戦を発表し、1999年11月の停止まで、バスク和平の期待は膨らんだ。しかし、停戦中はテロ活動がなかったものの、ETAは組織を再編し、武器を充実させたと思われる。
 2000年に入り、ETAによるものと考えられるテロは継続していた。このころになると、軍や治安部隊幹部などを標的としてきたテロの矛先が、実業家や政治指導者へと変化し始めた。急増するテロについては、連続するテロを起こすことで、政府にバスク州の非常事態を宣言させ、反政府感情をあおる狙いがあると見られている。
 2002年6月、スペイン国会ではETAの政治活動を停止させるため、改正政党法が可決された。この新法により、検察庁はテロ擁護の政治団体について、最高裁に解散の是非の決定を求めることができるようになったのである。同年8月、アスナール政権はETAの政治部門とされるHBを解散させるべく法手続きを開始、同月、法案は可決された。つまり、HBは非合法政党とされ、解散が決定したのである。ETAはこれまで、3300件以上のテロを起こし、死者は836人に及んでいる。
 2004年3月11日、マドリッドで列車爆破テロが起こった。アルカイーダが犯行声明をアラブ圏の有力紙に送ったにもかかわらず、スペイン政府はETAによる犯行の可能性が最も高いという認識を示した。後に、アスナール首相が報道機関幹部に直接電話し、事件はETAの犯行だと伝えていたことが明らかになった。テロの正体を見誤った不手際が大きな痛手となったのか、同年3月14日に行われたスペイン総選挙の結果、アスナール率いる国民党は敗北し、社会労働党(首相:サパテロ)が第一党になった。
 同年末、自治州議会が独立を求める法案を可決したことから、2005年に入ると、バスク自治州での独立運動が急速に高まってきた。しかし、サパテロ首相はその要求を、1978年憲法の原則を踏みにじり、国家分裂を加速させるとして非難。バスク情勢は自治州と中央政府が全面対決する様相になった。また、ETAによる爆破テロが相次いだ。どの事件も事前に爆破予告があり、ETAは自らの存在感を主張するために行ったものと考えられる。
 2006年、3月22日、サパテロ政権が和平交渉開始の条件としていた武装解除に応じる形で、ETAが24日から恒久停戦を実施する方針を発表した。バスク地方の市民は、日常生活正常化への期待と中央政府の今後の対応への不安を抱いている。バスクはかつて独自の自治を認められながら、フランコ政権下でバスク的なものすべてが禁止された。そして自治が復活した後も続くETAのテロ活動により、バスク市民に対する警察当局の監視の目が強い。そのため、バスクの人々にとって中央政府への不信感は強く、今後の展開に不安を抱く市民も多い。また、今後の政府の対応は、バスク地方に限らずスペイン国内の民族問題に影響を与え、国の形を左右する可能性も秘めている。カタルーニャでは、自治州憲章に「カタルーニャを国と定義する」と盛り込んだ憲章改正案を国会に提出し、承認された。これを受け、バスクがカタルーニャに追随する可能性は高いと見られる。
 スペインからの独立を主張しているバスクだが、経済の見通しを考えると、国家的救済が必要で、自治政府の力だけでは解決できない問題もある。そのため、バスクの中でも独立を唱えるわけにはいかないという意見もあるのだ。スペイン政府の下での自治には満足していないが、バスク人としての権利が与えられている今、独立することは無謀だと考えるバスク人も多い。理想と現実の間でバスク人の心は揺れているのである。
by remona121 | 2007-01-09 22:06 | 卒業論文

5.バスク語の復権

5.バスク語の復権

 5.1.バスク語衰退期

 バスク・ナショナリズムにおいて、バスク語はバスク人を特異化するものとして、象徴的に扱われてきた。しかし、バスク語話者の比率は減少してきている。ここでは、とくに19世紀のナショナリズム誕生以来、バスク語話者の比率がどのように変化してきたのか考える。
 19世紀後半の王政復古にともない、バスク地方はフエロ(地域特別法)を失い、スペインの一部に組み込まれた。スペイン政府はバスク地方に初等教育の学校を建設し、カスティーリャ語を義務として教えた。また、スペイン政府下でバスク人男子にも兵役義務が課せられ、彼らはカスティーリャ語を習得しなければならなくなった。そのため、バスク語話者は急激に減少していくことになる。また、工業発展にともなうバスク社会の変容は、バスク地方に大量の労働移民を招き、これもバスク語話者の比率を下げる原因となった。
 1936年からのスペイン内戦、フランコ独裁政権下でバスク語はさらに衰退していく。バスク地方はフランコにより自治権を廃止され、バスク語、バスク文化すべてが禁止された。そのため、公的な場でのバスク語の使用は、教会関係行事のみで許され、家族や友人との限られた空間で使用されるだけになった。19世紀後半には、アラバ、ナバーラのほとんどでバスク語が使用されなくなった。また、フランコ政権終了の1975年までには、ギプスコア、ビスカヤでのバスク語話者の比率が激減している。この結果から、およそ40年に及ぶフランコの独裁が、バスク語に及ぼした影響がいかに大きいものだったかがわかる。


5.2.バスク語復権へ

 1960年代、バスク語こそがバスク民族存在の証であり、バスク・ナショナリズムの象徴であると再確認され、バスク語復権運動が始まる。イカストラ(ikastola)と呼ばれるバスク語学校では、バスク語を使用してバスク語を教えるのが特徴であり、バスク語話者の減少が顕著な都市部を中心に展開された。また、1968年にバスク語アカデミーが「統一バスク語」を制定した。これは今日まで継続しているバスク語正書法整備の基礎である。
 フランコ死後の民主化の中で制定された1978年憲法において、バスク語はバスク自治州内における公用語に認定された。また、1979年に制定された「バスク自治憲章」においても、バスク語が国家公用語のカスティーリャ語とともにバスク自治州内で公用語の地位を享受することが認められている。しかし、バスク自治憲章の第3条には、カスティーリャ語を知る権利と義務をすべてのスペイン人が有するが、バスク語については、自治州の住民にそれを知る権利はあっても、それを知る義務はない、と書かれている。この点において、2つの公用語は認められてはいるが、その法的地位が対等ではないことが分かる。
 1982年、「バスク語使用の正常化に関する基本法」が制定され、バスク語とカスティーリャ語の2言語公用語体制が推進されるようになる。この法の下では、バスク住民は2言語のうち本人の選択する言語での教育を保障されるというものである。しかし実際は、バスク語の社会的諸機能を支援する積極的是正措置であり、バスク語の半義務化政策であった。
 半義務化政策の下で育った子供たちは、学校教育の中で統一バスク語を勉強してきた。自治州政府はバスク語を使用する運動を推進し、バスク語教育を通してバスクの共通意識を高めようとしてきた。これらの政策をバスク住民がどう捉えているのか分からない。しかし、バスク語正常化政策が開始されてから2001年までのおよそ20年間に、バスク語正常化を展開するバスク自治州でバスク語話者の比率が5%以上増加したのに対し、ナバーラ自治州ではほぼ横ばい、フランス領バスク地方では8%以上低下している。この数字からバスク自治州のバスク語正常化政策にある程度の効果があったといっていいだろう。
 バスク語に関しては、自分たちの民族性を決定づける大切な要素であり、バスク・ナショナリズムの象徴としているが、実際はバスク人すべてがバスク語を話せるわけではない。1980年代のバスク語正常化政策により、若年層のバスク語話者の比率は上がったが、バスク住民全体を見ると、住民のおよそ75%がカスティーリャ語のみを第一言語としているのが現状である。
by remona121 | 2007-01-09 22:05 | 卒業論文

まとめ

まとめ

 以上述べてきたように、バスク・ナショナリズムの起源は、19世紀後半のバスク地方工業化による社会・経済の変化であり、バスク独自の言語・伝統が消滅してしまうという危機感であった。
 初期のナショナリズムはアラーナによって確立され、バスク民族を決定づけるものはバスク語や生活習慣ではなく、何よりも血族であるとした。一方、その後登場するクルトヴィヒは、バスク語こそがバスク民族を決定付ける第一の要素であるとし、バスク民族とバスク語は切っても切れない関係であることを主張した。また、工業化によって非バスク化が進む都市部と伝統的生活が残っている農村部では、バスク・ナショナリズムに対する意識に違いが見られた。その後、フランコの弾圧に抗する組織としてETAが成立する。ETA内部でもイデオロギーの相違による分裂や統合などが繰り返され、共通の目標に向かって活動してきたわけではない。
つまり、どの時代を見ても、バスク・ナショナリズムの定義は一つではなかった。むしろ、その時代や地域的特性によりその定義は曖昧であり、そこに住む人々の意識も違っていたと言えるだろう。しかし、共通して言えることは、彼ら自身がバスク人とはいかなるものかを試行錯誤を繰り返しながら見つけ出し、常に自分たちがバスク人であることを主張し続けてきたということだろう。
 ETAの活動は、フランコ政権の時代にはバスク住民の支持を得ていたが、独自の自治権を得た今も続くテロ活動は、バスクのマイナスイメージを増殖している。政治的要求を提唱していても、テロを繰り返す限り、彼らは非道な犯罪組織でしかない。現在では、ETA結成当時のナショナリズムの思想は失われ、過激化するテロ活動から世界のテロ組織リストに名を列ねるほどである。2006年3月、政府との和平交渉に向けてETAは恒久停戦を宣言した。このまま停戦が続けば、政府もETAとの交渉を開始するとしている。しかし、以前にETAは停戦を宣言したにも関わらず撤回し武装闘争を開始し、政府との交渉がうまくいかなかったこともある。政府のETAへの不信感の根はとても深いものとなっている。違法政党であるHBの合法性返還や、ETA受刑囚の状況の改善の要求を政府はどう対処するのか。また、停戦期間中にも関わらず、ETAによる暴力事件が後を絶たない。ETAと政府の和平交渉はそれほど簡単には進まないだろう。
 バスク・ナショナリズムやETAについて調べることで、私たち日本人にはあまり見られない民族意識の強さを感じた。それは、彼らがバスク人として誇りや自信を持ち、それを守り通したいという想いからなのだろう。また、スペインの中のバスク、ヨーロッパの中のバスクという位置づけは、島国である日本とは違い、彼らの民族意識をさらに強めるものになったに違いない。バスク人はスペインが建国される以前から、バスク地方に住んでいた民族である。しかしながら、どの時代を見ても、スペインの中のバスクという位置づけであり、使う言語が違っても彼らはスペイン人であるとされた。バスク・ナショナリズムの根底にあるものは、自分たちをバスク人という1つの民族だと認めてほしいという要求といえるかもしれない。
バスク・ナショナリズムの歴史はまだ終わったわけではない。今後のスペイン政府の対応によっては、将来もしかすると、バスクが1つの国として独立することがあるかもしれない。

〈参考文献〉

・大泉光一(1993)「バスク民族の抵抗」新潮社
・狩野美智子(1992)「バスク物語―地図にない国の人々―」彩流社
・萩尾生(2002)「変容するバスク・ナショナリズムとその多様性」
(立石博高・中塚次郎 編「スペインにおける国家と地域―ナショナリズムの相克」国際書院pp145-190)
・萩尾生(2005)「バスク自治州におけるバスク語」
(坂東省次・浅香武和 編「スペインとポルトガルのことば―社会言語学的観点から―」同学社 pp89-117)
・渡部哲郎(2004)「バスクとバスク人」平凡社

(*章もしくは節ごとの、参考文献の表示は省略しました。)


2007年1月9日
by remona121 | 2007-01-09 22:04 | 卒業論文