スペインバスク地方とETAについてのblogです!でも最近は就活のこともupしたりしてます☆ぜひぜひコメント残していってください!


by remona121
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ETAの活動

お久しぶりです。忙しいとの理由で3週間も放置してしまいました。今日、ゼミの発表も終わり、研究も少し進んだのでこれから随時書いていきます。とりあえず今日はフランコ時代のETAの活動についてお話します。

ETAは「バスク民族意識を抑圧するフランコ体制に対抗する組織」として1959年に結成されました。その後フランコが亡くなる1975年までのETAの主な活動について調べてみました。ここで言う「活動」とはいわゆるテロ活動のことです。

1961年旧フランコ派の兵士たちが乗った列車への爆弾テロ。これは未遂に終わりましたがETAによる最初の武力闘争です。
このテロ攻撃により、警察によるETA狩りが開始されます。

1968年メリトン・マンサナス警部の暗殺。メリトン・マンサナスは、ギプスコアの治安警備隊の政治犯担当部長だった人です。この事件は、当時ETAの最高責任者であったハビエル・エチェバリタが警察によって殺害されたことへの報復として行われました。これは最初の犠牲者を出した事件で、この事件をきっかけにETAの武力闘争は暗殺テロへと変わっていきます。
このテロを受け、フランコ政府はバスク地方中心に非常事態宣言を発表し、「ETA封じ込め作戦」を決行します。これにより1ヶ月間で600人以上の反体制活動家が逮捕されました。

1973年カレロ・ブランコ首相暗殺。フランコの後継者として就任したカレロ・ブランコは、就任演説で「ETAを壊滅する」という対ETA闘争宣言を発表しました。この宣言に対し、ETAはブランコを暗殺することで応えたのでした。

1974年ローランド爆破事件。これはETAが最初に起こした無差別テロで、12名の死者と80名の負傷者を出しました。この事件は、一部の過激派指導者によるものとされています。しかし、このようなテロ活動はETA全体のイメージを悪くしたり、ETA反対キャンペーンが高まる原因となるということで、ETA内でイデオロギー対立が起こりETAは大きく二派に分裂します。まず、ETA-M(ミリタール)。これは、政治を無視した武力闘争のみを求める少数派過激グループです。そしてもう一つは、ETA-PM(ポリティコ・ミリタール)。こちらは、政治的に大衆闘争を求める…つまり、政治闘争と武力闘争を同じ割合のもとに行うことを主張するグループです。とは言っても、この後ETA-PMも銀行強盗や企業要人の誘拐など行うようになり、ETA-PMの中でも過激派と穏健派に分かれます。
このようにETA内でも実はイデオロギー対立があり、色々な派閥があります。

そして1975年、フランコが亡くなります。これにより、長年のETAとフランコの戦いは終わります。しかしその後もETAは形を変えて継続していきます。

1977年、総選挙が行われ、新政権はバスク地方に暫定的自治政府の設立を承認します。これを受け、1979年にバスクに再び正式な自治政府が成立し、バスクは再び自治州となるのです。(1937年にフランコに自治権を奪われてから40年ぶりのことです。)

1979年の自治政府発足により、テロ活動は沈静化するように思われましたが、実際は80年代に入り激化していきます。またこのころには無差別テロの傾向が強くなっていきます。
1979年以降、彼らはたびたび観光地を狙ったテロを行いました。しかし、この爆破は小規模で観光客に死傷者はいませんでした。では、何のためにテロを行ったのでしょうか??
その理由は…
①政治的要求が公表できるため
②いずれも事前に警察当局に予告することで、大きな注目を集めることが出来るため
彼らの目的は観光客を殺すことではなく、独立のために戦う自分たちの姿を世界中に示すことなのです。そのため、大規模な爆破をし被害者を多く出すことは、
①ETAの過激な活動に反対する政府キャンペーンの高まり
②スペインにおいて国民の支持が得られなくなる
③バスク地方でHB(ETAの事実上の政治部門)の信頼を失いかねない
などというリスクがあるため避けていました。事前予告and小規模爆破の理由はここにあります。

これらのETAの活動にスペイン政府側も放っておくわけはなく、その取締りは厳しくなっていきました。
そんな状況の下、GALという組織が創設されたのです。これについては次回の更新で書きたいと思います。


ここまでまとめて、今日のゼミの発表で指摘されたこと・感じたこと…
・スペイン内戦について、その流れや全体像を把握すること
・スペイン史(政党や政権について)を、バスク側から調べるだけでなく、一連   の流れとして知らなければならないということ
・最終的に何を突き詰めて研究していくのかということ
以上の3点です。この反省を活かし今後研究を進めていくつもりです。

ブログを読んでいただいて、前後のつながりなどよく分からないとこがあるかと思いますが、勉強不足なのでお許しください。
by remona121 | 2005-11-26 01:24 | バスク

Granadaⅱ

前回の旅行記から1ヶ月ぶりの更新、そしてスペインから帰国してからまもなく2ヶ月になるのに、まだ旅の半分くらいしか更新されてませんでしたね…。ま、気長にお付き合いください★

ではでは、さっそく前回の続き。アルハンブラ宮殿以外のグラナダを紹介します。

まずは王室礼拝堂(Capilla Real)。
1492年、レコンキスタが完了しグラナダをキリスト教徒の手に取り戻したイサベル女王は、グラナダに墓所を定めることにし、1504年建立が開始されました。その年イサベル女王は亡くなり、夫のフェルナンド2世も1516年に完成を見ないままなくなりました。そして1521年の完成とともに、イサベル女王の遺言通り、カトリック両王の柩が安置されました。そしてこの柩は今も安置されていて見ることができます。
ここ王室礼拝堂の見所は中央にある霊廟(Mausoleo)。大理石の墓石が2対並んでいて、右側にカトリック両王であるイサベル女王とフェルナンド、左側にその娘フアナ王女と夫のフェリペ王が眠っています。これらの墓石は紋章、聖人、天使やライオン像などの彫刻によってとても豪華に装飾されています。また、もう一つとても小さい柩が納められていて、これは幼少時代に短命で亡くなったイサベル女王の孫のものです。
スペインマニアじゃなくても、イサベル女王やフェルナンドの名前を聞いたことある方は多いのではないでしょうか??16世紀時代のスペインを今に伝える王室礼拝堂。ここはぜひ行ってみることをお勧めします。

次にカテドラル(Catedral)。
グラナダ陥落後、イスラム教大モスクの跡に1518年より建設が開始されました。当初はトレド大聖堂のゴシック様式を範とし建設が進められましたが、1528年以降はプラテレスコ様式になり、その後ルネッサンス風になり、今はゴシック様式とルネッサンス様式混合のカテドラルとなっています。写真に納まりきれてないので分かりづらいのですが、かなり巨大で立派なカテドラルです。王室礼拝堂の隣にあるので、立ち寄ってみてください。

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こちらの写真はアルバイシン(Albayzin)。この写真はアルハンブラ宮殿から撮ったものです。こちらアルバイシン地区は、アラブ統治時代に城塞都市として発展した、グラナダ最古の町並みが残る地区です。アルハンブラ宮殿とともに世界遺産にも登録されています。城塞都市として設計されたこの都市は、道が迷路のように入り組んでいて方向感覚を失ってしまいます。また、坂道と階段が多くあります。白壁の家が立ち並び、長く続く石畳の階段はこの地区独特のものだと思います。そして、高台に上ればアルハンブラ宮殿が一望できます。夕方になれば夕日に照らされ、夜になるとライトアップされたアルハンブラ宮殿を見ることができます。10月10日に放送された「世界の絶景100選」でもこの景色が取り上げられていましたね~。

また、グラナダでは洞窟内のタブラオでフラメンコを見ることができます。「タブラオ」とはフラメンコを見物しながら飲食するお店のことです。私もアルバイシンにあるロス・タラントス(Los Tarantos)というタブラオにフラメンコを見に行きました。右の写真がタブラオの内部です。分かりづらい写真ですが、写真下の四角形の板の上でフラメンコを踊ってくれます。本当に目の前で踊るのでとても迫力がありますよ~。ここのタブラオのチケットはホテルで扱っているところが多いので、見に行きたい方はホテルのロビーで聞いてみるといいと思います。フラメンコのみなら20ユーロ、送り迎え・夜のアルバイシン地区散策込みで25ユーロでした。25ユーロ出してもアルバイシンの散策付きがお薦めだと思います。
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グラナダはこんな感じです。やはり帰国から2ヶ月も経つと忘れてしまいますね…。バレンシアとバルセロナもなるべく早く書いてしまいたいと思います。
by remona121 | 2005-11-03 21:03 | スペインへの旅~paraトマト祭り