スペインバスク地方とETAについてのblogです!でも最近は就活のこともupしたりしてます☆ぜひぜひコメント残していってください!


by remona121
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Consuegura

8月26日、私たちはラ・マンチャ地方(La Mancha)に到着しました。

<La Mancha>
ラ・マンチャとはアラビア語で「乾燥した土地」という意味で、その名にふさわしくそこは赤茶けた広大な大地が延々と続き、青い空に白い風車というスペインの代表的なシーンを見ることができます。この地方は夏はとても暑く冬は寒いので、春か秋が観光のベストシーズンです。交通は非常に不便で、バスや電車の本数も少ないので観光には要注意です。
スペインには「巡礼の道」や「銀の道」といった観光ルートがありますが、ここラ・マンチャ地方は「ドン・キホーテの道」として知られています。そして、今年2005年は世界的に知られている騎士道物語『ドン・キホーテ』の初版が刊行されてからちょうど400年になります。
作者ミゲル・デ・セルバンテスは、1547年マドリッドの東約30kmのところにあるアルカラ・デ・エナーレスに生まれました。『ドン・キホーテ』は一般に、最初の近代小説と位置づけられ、前編が1605年に発表されてから世界中で翻訳され、現在も読みつがれている不朽の名作です。前編の評判がとてもよかったため、セルバンテスを名乗る者が登場し、『ドン・キホーテ』の続編を刊行するという事件もありました。1615年に刊行された後編でドン・キホーテは病に倒れ死んでしまいます。セルバンテスはドン・キホーテが死んでしまうことで、今後偽物が出版されるのを防いだのです。
そしてこの物語の舞台の中心となるのが、ラ・マンチャ地方なのです。

『ドン・キホーテ』のお話を簡単に説明します。
スペインのラ・マンチャ地方のある村に住む主人公アロンソ・キハーノは、年齢は50歳近く、顔もからだも痩せていますが骨組みのがっしりした背の高い男です。彼は騎士道物語を読みすぎ、もう過去の存在である騎士になりきり自分も騎士として功名をあげたいと思うようになります。そして、彼は自分をドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと名乗り、農夫のサンチョ・パンサを従士にし、やせ馬ロシナンテにまたがり、遍歴の旅に出発することになるのです。
ドン・キホーテが出会うすべての事物は、彼の空想または妄想によって思いもかけないものに変えられてしまいます。例えば…野原の風車は巨人に、ヒツジの大群は進撃する軍隊にみなされるのです。ドン・キホーテはそれら巨人や軍隊に勇敢に立ち向かっていきますが、いつも散々な目に遭ってしまいます。こうした失敗を繰り返しながら遍歴の旅を続け、結局は故郷に帰り騎士道を断念します…
また「ドン・キホーテ」とは、状況を無視して自分の理想の実現のために生き、行動するタイプの人間の代名詞にもなっています。


ドン・キホーテが巨人だと思い込んで突進した風車の群れがあるのは、カンポ・デ・クリプターナ(Campo de Criptana)。そこからちょっと離れたところにあるコンスエグラ(Consuegra)に私たちは行ってきました。

f0050553_21111497.jpgコンスエグラはブドウ畑の広がる平原から突き出た丘の上にある人口8000人ほどの小さな町です。丘の上には風車が11基、丘の尾根に沿ってきれいに並んでいます。コンスエグラに行くにはマドリッドやトレドなどからバスが出ています。電車は走っていません。バス停に到着したら時計塔を目指し進んで行き、そこからさらに丘を登って行くと風車が見えてきます。現在この風車は使われてはいませんが、11基ある風車のうちの1基は売店、もう一基は観光案内所になっています。この2基は中を見学することができるので、ぜひ入ってみてください。

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コンスエグラは11基並んだ風車以外に見所はないかもしれません…。しかし、丘の上には気持ちがいい風が吹いていて、その風を感じながら風車を眺めるのは本当に最高です。ぜひ一度行ってみるコトをお勧めします。

ただ、ラ・マンチャ地方への交通は本当に不便&本数が少ないので、バスや電車の時間は必ず確認してから行ってください。ホテルも町に1件しかなかったりすることが多いので、もし泊まるなら予約していったほうがいいと思います。また、コンスエグラは小さい町だったせいか町の中の移動はすべて徒歩でした。もちろん歩いて回れる距離に風車やホテルはありますが、結構遠いので体力つけてから行ったほうがいいかもしれませんね~。


次の日、コンスエグラからグラナダへ移動しました~。
by remona121 | 2005-09-25 19:02 | スペインへの旅~paraトマト祭り

Toledo

8月25日の朝、私たちはToledoに移動しました。

<Toledo>
マドリッドの南約70kmにあるトレドは、スペインの代表的な観光地として有名な街です。この街はキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の3つの文化が混在し、1500年以上の古い歴史を持っています。また、トレド旧市街はユネスコの世界遺産にも登録されています。


f0050553_2134854.jpgトレドに到着して街の中心へ向かうと、まずビサグラ新門(Puerta Nueva de Bisagra)にたどり着きます。地図上ではバスターミナルからそんなに遠くはありませんが、果てしなく坂道なので市バスを利用することをお勧めします。ちなみに私たちは徒歩を選択してしまったため、トレドに着くなり疲れてしまいました…。街の中心、ソコドベール広場(Plaza de Zocodover)へ行くには、ビサグラ新門からさらに坂を上らなければなりません。暑くて本当に体力を奪われバスを利用するべきだったと後悔しました。

f0050553_2141045.jpgまず私たちが向かったのはアルカサル(Alcazar)。ローマ時代から裁判所があった場所に、アルフォンソ6世が11世紀にトレドをイスラム教徒から再征服し、要塞を建設したのが始まり。以降、500年にわたってカスティーリャ王国の首都となったトレドの軍事拠点として、重要な役割を果たしました。1936年のスペイン内戦の時には、約2ヶ月にわたりフランコ軍が立てこもり激しい攻防戦が繰り広げられ、建物は崩れ落ちてしまいました。現在はもちろん再建されています。…しかーし、私たちが行ったときは建物が古くなったのか改修工事が行われていて、実は建物の半分くらいは壊されていたのです。そのためもちろん中には入れず…。改修工事って一部だけ直すのかと思いきや、全体的に壊して建て直ししちゃってたんです。しかし、残りの半分は今は図書館になっているので入ることはできます。改修している方は博物館になっていたので、見られなかったのは本当に残念でした。

f0050553_2143392.jpg次にカテドラル(Catedral)を紹介します。トレドのカテドラルは6世紀に西ゴートの王によって建てられ、イスラム時代にはメスキータに造りかえられました。その後1226年、フェルナンド3世の命により新しく工事が始められ、1493年に完成しました。そのあとも、時代により増築・改築されオリジナルの部分は少ないようです。カテドラルの見所は、イサベル女王の王冠や宝石が展示されている宝物室(Tesoro)や、天井のフレスコ画がすばらしい聖器室(Sacristia)などです。もちろんそのほかにも見所はたくさんあります。closeの時間が結構早いので、ゆっくり見学したいなら早めに行ったほうがいいと思います。私たちはガイドブックで調べてから行ったのに、そこに書かれた時間より早く退出するよう言われてしまいました…。

トレドの見所のもう一つは、タホ川を隔てた場所から見る町の全景だと思います。ここのポイントは町の外れにあるので、1時間に1本しか走ってない市バスで行くか、もしくはタクシーで行かなければなりません。ツアーで行けば立ち寄るポイントみたいですけどね…。私たちはそこまで市バスで行ったのですが、次のバスが来るのを待っている間、ツアー客を乗せた何台もの観光バスが来て、みんな写真だけ撮って去って行きました。停車時間は5分程度。そんな場所なんです。景色を見る以外何もない…。もし行こうと思っている方は水とか持っていったほうがいいと思います。確か「Mirador」とか言うバス停でした。もしくは、パラドール(スペイン国営ホテル)が近くにあるので、そこへ行くといいと思います。
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トレドはそんなに広い町ではありませんが、町中が坂道で上ったり下ったり…。暑かったのもあって、本当に疲れました。また、道は車がやっと1台通れるほど狭く、細い路地が多いので、道に迷います地元の人に聞けば親切に教えてもらえるので、迷ってしまったときには聞いてみるといいと思いますよ。それから、トレドの名産にマサパン(Mazapan)があります。アーモンドと砂糖を練って作ったお菓子。トレドに行ったときには食べてみてください。
私たちは次の日の朝、トレドからコンスエグラに移動しました
by remona121 | 2005-09-21 17:48 | スペインへの旅~paraトマト祭り

Madrid

時差が7時間(サマータイム)もあるため、日本から約18時間もかかったのに、Madridに到着したのはスペイン時間ではまだ8月22日でした。この日から25日の朝まで、私たちはMadridに滞在していました。


<Madrid>
町の始まりは9世紀後半、レコンキスタ(国土回復運動)の際、北から押し寄せるキリスト教徒に対してイスラム教徒の軍事拠点として開かれた、マジュリートという小さな村に過ぎませんでした。1083年、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世がマドリッドをキリスト教徒の手に奪回。1561年に、当時の国王フェリペ2世が宮廷をトレドからマドリッドに移転し、以後大きく成長することになりました。

レコンキスタを完遂した16世紀、スペインは黄金世紀を迎え、ヨーロッパのみならず、全世界に領土を拡大し、マドリッドはその世界帝国の中心地として発展しました。豊かな国力からか、歴代国王は美術品の収集・芸術家の擁護に努め、ゴヤやベラスケスなどの優れた芸術家を輩出しました。それらの王室コレクションが、プラド美術館の母体となっています。17世紀にはフェリペ3世によりマヨール広場(Plaza Mayor)が建設され、町はここを中心に繁栄しました。

18世紀、フェリペ5世やカルロス3世により、新しい王宮やプラド美術館などが建設され、首都としての地位をゆるぎないものにしました。19世紀には旧市街の中心、プエルタ・デル・ソル(Puerta del Sol)が、20世紀にはグラン・ビア(Gran Via)が完成。1960年代以降、本格的な近代化を推し進め、現在はスペインの政治・経済の中心となっています。


私たちがMadrid滞在中に訪れたトコを紹介します。
まずは、プエルタ・デル・ソル(Puerta del Sol)。日本語で「太陽の門」という意味のこの広場は旧市街の中心になっています。中央に立っているのはカルロス3世の騎馬像。その向かいにある時計台のある赤レンガの建物はマドリッド自治政府庁です。また、マドリッド市の紋章になっている山桃の木と熊の像はマドリッド市民の待ち合わせ場所の定番となっています。日本で言う「ハチ公前」って感じかな…。

f0050553_20534087.jpg次にマヨール広場(Plaza Mayor)。フェリペ3世によって1619年に完成したこの広場は、過去3回火災に遭い、そのたびに改装され現在の形になったのは1953年。中央にはフェリペ3世の騎馬像が立っています。かつては王家の儀式・闘牛・祭り・宗教裁判の焚刑までさまざまな「見世物」が行われていました。赤い壁の集合住宅で囲まれたこの広場の1階部分は、バルやみやげ物店が並んでいます。私たちはここでCerveza con Limon(ビールをレモンスカッシュで割ったもの)を飲んだのですが…炎天下の中歩き続けたあとだったせいか、最高においしかったです!

 
f0050553_20561386.jpg王宮(Palacio Real)。マドリッド市内で最も美しい建物のひとつ。9世紀にはイスラム教徒の城塞があり、11世紀にマドリッドをイスラム教徒から奪回してからは王の居城として使われていました。1734年のクリスマスイヴに火災に遭い、現在の建物は1764年に再建されたものです。着工を命じたフェリペ5世は完成を見ずして亡くなりましたが、次のカルロス3世から、アルフォンソ12世がフランスに亡命する1931年まで歴代の王たちが住んでいました。建物内部は一般公開されていますが、今も公式行事に使われているため、何か公式行事があるときは中を見学することはできません。私も2月に行ったときは入れませんでした…。 王宮の正面にあるアルムデーナ大聖堂(Catedral de Ntra. Sra. de la Almudena)。 ガイトブックでは名前しか紹介されていないことが多いのですが、その外観はとてもきれいです。中に入ることもできるので、王宮に行ったときにはちょっと寄ってみるのもいいと思いますよ!(写真をこの記事の最後に載せておきます)

マドリッドのもう一つの見所、それは美術館。美術に興味がない私はマドリッドで初めて、美術館巡りをしました。マドリッドにはプラド美術館(Museo del Prado)・ソフィア王妃芸術センター(Centro de Arte Reina Sofia)・ティッセン・ボルネミッサ美術館(Museo de Thyssen-Bornemisza)の3大美術館があります。私たちはプラド美術館とソフィア王妃芸術センターに行ってきました。プラド美術館はスペインを代表する美術館で所蔵絵画は8000点にのぼり、展示されている作品だけでも3000点を超えているそうです。エル・グレコ、ゴヤ、ベラスケスに代表されるスペイン絵画のほか、イタリア派、フランドル、オランダ、ドイツなどさまざまな作品が展示されています。ものすごく広いので、見たいところだけ絞って見るのがお勧めかもしれません。ソフィア王妃芸術センターは20世紀のスペイン美術の代表的画家であるピカソ、ダリ、ミロなどの作品を所蔵する国立美術館です。プラド美術館と比べると、作品のテーマがさまざまで近代的でおもしろいと思います。

マドリッドの見所はこんな感じですそんなに大きな街ではないけれど、1日で回るのはかなりしんどいと思います 2,3日かけて観光するのがお薦めです。
そして25日の朝、私たちはMadridからToledoに移動しました。

f0050553_20575370.jpg←王宮の正面にある大聖堂です。

↓これはアルカラ門。1778年に建設されました。街を歩いていると、突如こういう素敵なものを見ることができます。
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by remona121 | 2005-09-19 13:47 | スペインへの旅~paraトマト祭り
サビノ・アラナ・ゴイリ
彼はバスク・ナショナリズムのイデオロギー創始者でバスク・ナショナリズムの父と呼ばれています。サビノ・アラナは1865年、ビスカヤの中心都市ビルバオに生まれました。教育熱心だった両親のおかげで、中等課程に進学するのを契機に全寮制の中等課程に入学します。彼はここでの5年間の生活で、彼の確固たる思想を形成したといわれています。
その後、サビノ・アラナはバルセロナ大学に進学します。在学中にカタルニアの独立運動に共鳴し、ビスカヤに戻ってからはバスク地方の歴史や文化・バスク語の研究を始めました。1893年、ララサバル・デ・バゴナで初めて政策演説を行い、そこで政治運動の目的はバスク地方の独立であるという展望を明らかにしました。
1894年、バツォーキ・バスク人民センターを創設し、1898年にはビスカヤで地方議員に初当選しました。その後もサビノ・アラナは、バスク民族国家(エウスカディ Euzkadi)樹立を目指した政治活動の中で、雑誌やバスク地方紙に過激な記事を掲載し、刑務所への出入を繰り返しました。彼は彼の青春時代をもっぱらバスク・ナショナリズム運動に注ぎ、1903年、若干38歳の若さで病に冒され亡くなりました。

サビノ・アラナが亡くなったのち、彼の思想とバスク・ナショナリズム運動は彼の友人に受け継がれましたが、1895年には彼の思想が基礎となってバスク民族主義党(PNV)が創立されました。

サビノ・アラナはバスク民族国家樹立を目指した政治活動のほかに、「Euzkadi(バスク)」、「La Patria(祖国)」などの雑誌の創刊なども行い、バスクの歴史上忘れてはならない人物の一人です。
by remona121 | 2005-09-18 20:54 | バスク

スペインへの旅

「私、トマト祭りに参加したいんだぁ☆」
・・・友達のこんな一言からこの旅は始まりました。

まずはスペインまでの往復航空券を手に入れることからはじめました。一番安い航空券を手に入れるため、お互い忙しい学校生活の中、ネットで調べたり旅行会社をはしごしたり…。 探し始めたのが遅かったせいもあってか、私たちが見つけた一番安い航空券は17万! 総予算25万と言っていたこの旅、飛行機だけで17万!?でもお互い「やっぱり行くの止めようか…」という考えは浮かびませんでした。

そして無事に航空券を予約し、今度は宿探し。私たちはスペインまでの往復航空券しか取ってないので、滞在中の宿はすべて自分たちで探さなくてはなりません。宿探しの基準はとにかく安いコト!ガイドブックやネットで調べ、メール・ネット・電話(結局、電話予約は出来ませんでしたが。)で計6ヶ所の宿を無事予約することが出来ました。(予約は完了していましたが、チェックインの時はちゃんと予約が取れてるのかいつも心配でした。もちろんすべて予約出来ていましたけどね)

航空券・宿ともに無事予約することができ、8月22日から私たちはいざスペインへと旅立ったのでした~。
by remona121 | 2005-09-18 20:54 | スペインへの旅~paraトマト祭り

歴史ⅳ

<カルリスタ戦争>
スペイン国王フェルナンド7世(1784~1833)には後継ぎとなる子がいなかったため、彼の後継者はバスク地方を拠点とする弟のカルロス(1788~1855)になるだろうと考えられていました。しかし、フェルナンド7世は晩年、ナポリ出身の妻マリア・クリスティーナとの間にイサベルが誕生したため、1713年以来続いてきたブルボン家の女子継承禁止令を廃止し、イサベルに継承権を譲ることにしました。そのためカルロスは王位継承権を失い、1833年の兄フェルナンド7世の死をきっかけに、王位継承権を主張してカルロス5世を名乗り、武装蜂起しました。彼を擁立しようとした人々を「カルリスタ」と呼び、この戦争をカルリスタ戦争(1833~39)といいます。カルリスタはバスクの自由主義を守るという共通の意識によって高まり、法律における平等と社会正義を願って戦いました。

スペイン北部を中心に集結した旧体制を支持するカルリスタ側と、マドリッドを中心とする自由主義勢力が集結したイサベル側によるこの戦いは、カルリスタの敗北で終わりを迎えました。イサベル側の中央政府は戦争中から自由主義改革や土地改革を行っていた結果、近代的ブルジョワの発想に基づく私有権概念が導入され、永代所有財産制が廃止されるなど、農業を主体とするバスク地方では大きな影響を受け、1841年にはバスク地方の地域特別法が廃止されるに至りました。

この戦争の敗北により、立法権を持つ工業地域であるバスクへの課税が盛り込まれ、バスク人の自由の縮小と農民集団の無産階級への移行を目的とするベンガラ協定が結ばれ、カルロスは亡命しました。

<ナショナリズムの高揚>
王政復古を実施した諸党派は自由主義的立憲君主体制を築き、彼らは新体制構築の他に国家の統一主義を考えていました。そして1841年にバスク地方の地域特別法が廃止されたことにより、バスクはスペイン中央政府の一行政単位となってしまいました。

その後バスク地方は中央政府下で、従来から蓄積されたバスクの金融・商業資本を製鉄に投資し、隣接するアストゥリアス地方の石炭と結合して、バスク地方はイベリア半島で屈指の重工業地帯へと成長していきました。しかし、工業化とともに旧カスティージャ、ガリシア、アンダルシアなどからの移民労働者が大量移入し、伝統的なバスク社会は変化してしまいます。とくにビスカヤへの移入が多く、1900年代に入ると首都ビルバオでは人口の47.2%もの人がバスク地方以外からの移住者によって占められるほどでした。

こうなると、伝統的なバスク社会や生活は破壊され、バスクの人々は自らの文化や言語の消滅の危機感に駆られました。そして、彼らはバスク語とバスク文化の保持、地方自治権をスローガンに「バスク・ナショナリズムの父」といわれるサビノ・アラナ・ゴイリを中心にナショナリズム運動を開始することになるのです・・・


以上がバスクナショナリズム運動開始までの、バスクの大まかな歴史です。歴史ⅰ~ⅳまで長々と書いてきましたが、バスク地方が(ナショナリズム運動が)本格始動するのはここからです。今後はテーマを変えて(「歴史」ではなく)考えていきたいと思います。

参考:「バスク民族の抵抗/大泉光一 著」
by remona121 | 2005-09-13 15:48 | バスク