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スペインバスク地方とETAについてのblogです!でも最近は就活のこともupしたりしてます☆ぜひぜひコメント残していってください!


by remona121
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カテゴリ:バスク( 18 )

歴史ⅳ

<カルリスタ戦争>
スペイン国王フェルナンド7世(1784~1833)には後継ぎとなる子がいなかったため、彼の後継者はバスク地方を拠点とする弟のカルロス(1788~1855)になるだろうと考えられていました。しかし、フェルナンド7世は晩年、ナポリ出身の妻マリア・クリスティーナとの間にイサベルが誕生したため、1713年以来続いてきたブルボン家の女子継承禁止令を廃止し、イサベルに継承権を譲ることにしました。そのためカルロスは王位継承権を失い、1833年の兄フェルナンド7世の死をきっかけに、王位継承権を主張してカルロス5世を名乗り、武装蜂起しました。彼を擁立しようとした人々を「カルリスタ」と呼び、この戦争をカルリスタ戦争(1833~39)といいます。カルリスタはバスクの自由主義を守るという共通の意識によって高まり、法律における平等と社会正義を願って戦いました。

スペイン北部を中心に集結した旧体制を支持するカルリスタ側と、マドリッドを中心とする自由主義勢力が集結したイサベル側によるこの戦いは、カルリスタの敗北で終わりを迎えました。イサベル側の中央政府は戦争中から自由主義改革や土地改革を行っていた結果、近代的ブルジョワの発想に基づく私有権概念が導入され、永代所有財産制が廃止されるなど、農業を主体とするバスク地方では大きな影響を受け、1841年にはバスク地方の地域特別法が廃止されるに至りました。

この戦争の敗北により、立法権を持つ工業地域であるバスクへの課税が盛り込まれ、バスク人の自由の縮小と農民集団の無産階級への移行を目的とするベンガラ協定が結ばれ、カルロスは亡命しました。

<ナショナリズムの高揚>
王政復古を実施した諸党派は自由主義的立憲君主体制を築き、彼らは新体制構築の他に国家の統一主義を考えていました。そして1841年にバスク地方の地域特別法が廃止されたことにより、バスクはスペイン中央政府の一行政単位となってしまいました。

その後バスク地方は中央政府下で、従来から蓄積されたバスクの金融・商業資本を製鉄に投資し、隣接するアストゥリアス地方の石炭と結合して、バスク地方はイベリア半島で屈指の重工業地帯へと成長していきました。しかし、工業化とともに旧カスティージャ、ガリシア、アンダルシアなどからの移民労働者が大量移入し、伝統的なバスク社会は変化してしまいます。とくにビスカヤへの移入が多く、1900年代に入ると首都ビルバオでは人口の47.2%もの人がバスク地方以外からの移住者によって占められるほどでした。

こうなると、伝統的なバスク社会や生活は破壊され、バスクの人々は自らの文化や言語の消滅の危機感に駆られました。そして、彼らはバスク語とバスク文化の保持、地方自治権をスローガンに「バスク・ナショナリズムの父」といわれるサビノ・アラナ・ゴイリを中心にナショナリズム運動を開始することになるのです・・・


以上がバスクナショナリズム運動開始までの、バスクの大まかな歴史です。歴史ⅰ~ⅳまで長々と書いてきましたが、バスク地方が(ナショナリズム運動が)本格始動するのはここからです。今後はテーマを変えて(「歴史」ではなく)考えていきたいと思います。

参考:「バスク民族の抵抗/大泉光一 著」
by remona121 | 2005-09-13 15:48 | バスク

歴史ⅲ

前回パンプローナ王国の誕生のところまで書いたので、その続きです。

パンプローナ王国が誕生した頃、バスク王族出身のサンチョ・ミタラがカール大帝の支配から独立します。このバスク公爵領は10世紀に、全バスクの主ギジェルモ・サンチョの時に全盛期を迎えます。やがてサンチョ大王は、カスティージャ、アラバ、ビスカヤ、ギプスコア、レオン、アラゴンに至る広大な地域にナバラ王国の宗主権を及ぼし、サンチョ・ガルセス3世の時代にスペインキリスト教勢力の中で覇権を握りました。

ナバラはキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動、711~1492年)の実質的端緒を開いた土地で、ナバラの剛勇サンチョ7世は、イベリア半島からイスラム教徒軍を追放するきっかけとなったラス・ナーバス・デ・トロサの戦いでキリスト教徒軍を勝利に導いた人物です。

しかし、このあとナバラ王国は国力を失っていきます。サンチョ7世の死後、王位継承者がいなくて、そのうえペストの流行により人口が減少してしまったのです。そして、ナバラ王国は衰退しフランスに統合され実質的に消滅してしまいました。

14世紀後半になると、バスクはカスティージャ王国に併合されます。それと同時に、このとき初めてバスク地方北部からバスク民族主義の表明と独自の権利奪回の動きが表面化したのです。

また18世紀になると、ギプスコアではマヌエル・デ・ララメンディが伝統・文化・言語など民族的概念に基づくバスク国の思想を広め、スペインへの統合に反対する立場を貫きました。


なんだか、説明が下手でよくわかりませんね・・・すいません^^;
とりあえず・・・少しずつ、民族主義の考え方が出てきました。

参考:「バスク民族の抵抗/大泉光一 著」
by remona121 | 2005-08-13 16:01 | バスク

歴史ⅱ

歴史の続きをちょこっと書きたいと思います。

<歴史ⅱ>
5世紀に入ると、イベリア半島に西ゴート族が侵入してきます。476年には西ローマ帝国が崩壊し、西ゴート王国が成立します。しかし711年、イスラム勢力がイベリア半島に侵入。西ゴート王国の支配機構はたちまち崩壊してしまい、イスラム勢力がアラバまで及びます。これに対抗して、今度はフランク王国がイベリア半島に侵攻します。
778年、フランク王国のカール大帝軍はアンダルシア遠征の帰途、ピレネー山脈の麓のロンセスバリエスでバスク人に襲撃されて敗走しました。(ロンセスバリエスの戦い)その3年後、今度は北部山岳地帯に住むバスク人がカール大帝との戦いに敗れ、兵士は皆殺しにされ生き残った者(婦女・子供)は連れ去られました。一方、南部山岳地帯に住むバスク人とピレネー山脈北部の人々はカール大帝に抵抗するための強力な機関を組織しました。これは9世紀のパンプローナ王国の誕生につながり、また10世紀には分裂してナバラ王国となりました。

ちょっと分かりにくいかな・・・^^; 太字で書かれた部分を見ると、イベリア半島はたくさんの国によって支配されてきたことが分かります。

参考:「バスク民族の抵抗/大泉光一 著」
by remona121 | 2005-08-02 20:50 | バスク

歴史ⅰ

こんばんは。最近、「バスク民族の抵抗(大泉光一 著)」という本を読んでいます。もう絶版になっちゃってる本なのですが、ネットでなんとか手に入れることが出来ました^^ これからしばらくは、何回かに分けてその本をもとにバスクの歴史について書いていきたいと思います。世界史をやっていない方には、聞いたこともないような名前もいっぱい出てくると思いますが、ご了承ください★

<歴史ⅰ>
バスク人の祖先はネアンデルタール人と伝えられています。インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパ侵入以前の旧石器時代後期(約1万年~3万年前)にピレネー山麓に定住していた典型的な狩猟民族と言われています。
新石器時代(B.C.3500~B.C.2000年頃)になると、狩猟をやめて牛・豚・羊の飼育と漁労を始めます。このあと、青銅器時代・鉄器時代を経て歴史時代に入ります。

B.C.200年頃、ローマ帝国はカルタゴとの約200年に亘る戦闘の末、イベリア半島全体を征服します。しかし、バスク人はローマ人の支配に対し抵抗を続け、最後まで制圧されませんでした。そのため(前にも書いたように)、バスク人は独自の言語・文化を保持することが出来たのです。
「バスク」という総称はローマ人がB.C.100年頃「バスコニア」(ラテン語のVasconia)と呼んでいたことに由来するもので、バスク人は自らを「エウスカルドゥナク」(Euskaldunak=バスク語を話す人々)と呼んでいました。
現在使われている「エウスカディ」(Euskadi)は19世紀後半の民族運動の開始とともに登場した言葉です。


バスクの歴史はこんな感じで始まります。次は5世紀ころから書きたいと思います^^

参考:「バスク民族の抵抗/大泉光一 著」
by remona121 | 2005-08-01 21:09 | バスク
突然ですが、フランシスコ・ザビエル(Dominus Franciscus de Xabier)って知ってますよね?
カトリック教会の宣教師、イエズス会の創設メンバーの一人で、1549年日本にはじめてキリスト教を伝えた人物として有名です。しかし、彼がスペインのバスク出身だってことも知っていましたか・・・?


ザビエル(Xabier)はバスク語ではエチェバリア(Etxebarria=extxe家+barria新しい)といい、新しい家という意味です。ChavierやXabierreなどと書かれることもありますが、当時のカスティージャ語での発音はシャビエルだったと考えられています。現代スペイン語ではハビエル(Javier)です。

ザビエルは1506年4月7日、ナバーラ王国のパンプローナ近くのザビエル城主の家に生まれ育ちました。当時ナバーラ王国は独立を保っていましたがフランスとスペインの紛争の場となり、スペインに併合されてしまいます。この後、バスク人とスペイン、フランスの争いは続き、幼少期を戦乱の日々の中で過ごしたザビエルは聖職者を目指すようになるのです。

1525年、19歳でパリ大学に留学した彼は、そこで同じバスク出身のイグナティウス・デ・ロヨラに出会い彼の影響を受けます。1534年イグナティウスと同士たちはイエズス会を創始し、ザビエルもその一人に加わっていました。

ポルトガル王ジョアン2世の依頼でインド各地やマラッカで布教活動中の1547年、ザビエルは日本人のヤジロウ(アンジロー)に出会い、まだキリスト教の伝わっていない日本での布教を決心します。1549年、ザビエルは案内役のヤジロウ、イエズス会のトレス神父、ファン・フェルナンデス修道士らとともに鹿児島に上陸しました。その後、布教許可を得るために、平戸、山口をへて京都へ向かいます。しかし戦乱で荒れ果てた京都での天皇への謁見はかなわず、11日間の滞在で平戸へ戻り山口に向かいました。そして彼は、そこで宣教活動をしたのち日本での布教をほかのイエズス会士に任せ、インドへ向かいました。その後、中国が日本文化に大きな影響を与えていることを知り、今度は中国での布教を目指します。そして上川島に上陸しますがそこから中国へ入国することは出来ず、そこで病に冒されこの世を去りました。


以上、ザビエルによる日本での布教活動について簡単にまとめてみました。
バスクと日本って何の関係もなさそうですが、こんな身近に(身近ではないけど・・)日本文化に大きな影響を与えていたバスク人がいたなんて、ちょっと驚きでした。

世界史の教科書でおなじみのザビエル載せておきます^^
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by remona121 | 2005-07-29 16:31 | バスク

バスク語ⅱ

バスク語について、もう少し詳しく調べてみました。

長い間、バスク語の研究が行われてきた中でバスク語の起源についてはさまざまな説があります。例えば、イベリア語(東スペインの古代言語)やリグリア語(北西イタリアの古代言語)、またはロシアのカフカス地方のカフカス諸語などとの類縁関係を主張する説です。しかし、これらの説はあくまで仮定にすぎず、決定的な証拠はありません。

というのは、バスク語は文字の記録を残さなかった口承言語だからです。そのためバスク語は表記の上ではラテン語のアルファベットに頼らざるを得ず、隣接する言語の影響を強く受けるようになります。また、バスク語本来の語彙の中には抽象概念をあらわす語や、最近使うようになった道具などををあらわす語が存在しないため、それらを表すためにラテン語とそこから派生したロマンス語系言語(フランス語やスペイン語)からの借用が多く見られます。たとえば、カトリック教徒(ラテン語catholicus)はバスク語でカトリコ(katoliko)、十字架クルス(ラテン cruz)はクルツェ(kurutze)などです。また、政治はpolitika、フォークはfourchetta(←フランス語fourchette)と表します。

このように現在のバスク語には近隣のスペイン語やフランス語からの借用が多く見られますが、やはりその起源については謎に包まれたままのようです。しかし、バスク語がフランスのガスコーニュ地域にあたる古代アキテーヌで話されていたというのは確かなようです。

*カフカス地方:ヨーロッパ南東端、黒海とカスピ海に挟まれた地域。
*ガスコーニュ:フランス南西部の地方で、南はピレネー山脈、北と東はガロンヌ川を境界とし、西は大西洋のガスコーニュ湾(ビスケー湾)に面する。

次に簡単なバスク語を紹介します。

Egun on(エグノン):おはよう(昼食前までのあいさつ)

Arratsalde on(アラチャルデ オン):こんにちは(昼食後から)

Gau on (ガボン):こんばんは/おやすみ

Zer moduz?:(セル モドゥス)元気ですか?

Ondo eta zu?:(オンド エタ ス)元気です。で、あなたは?

Ni ere ondo(ニ エレ オンド):私も元気です。

Eskerri asko(エスケルリクアシコ):ありがとう


私はバスク語は専門ではないので、もしバスク語に興味がありましたら、「バスク語入門―言語・民族・文化知られざるバスクの全貌」(下宮忠雄 著、大修館書店)などがありますので見てみてください☆
by remona121 | 2005-07-26 12:53 | バスク

孤立した言語=バスク語

バスク語はバスク地方に住むバスク人によって話されている言語のこと。バスク語人口はスペイン・フランス合わせて50万~100万人程度です。先に述べたように、彼らはスペイン語またはフランス語を話すバイリンガルです。

バスク語はスペイン語やフランス語などラテン語に起源を持つロマンス語の言語に囲まれているにもかかわらず、そのどちらとも異なります。どちらとも・・というより、世界のどの言語とも異なるきわめて独特な言語なのです。

このようにバスク語が独自性を保ってきたのは、古代ローマ帝国における占領を受けなかったことがその原因の一つにあります。ローマ帝国が地中海方面からイベリア半島に侵入・占領し、イベリア半島はラテン語を母語とするロマンス語系言語を使用するようになりました。しかしローマ帝国は現在のナバーラ州に進入の前線基地を建設したあと、バスクまでは進駐しなかったのです。
また、その後ヨーロッパ・アルプスを越えてガリア(現フランス)にまで進軍したローマの将軍カエサルもピレネー山脈までは至らなかったのです。
このようにバスクはローマ帝国に支配されることなく独自の言語を保持した、といえます。

そして、バスク語はインド・ヨーロッパ語族言語を話す民族がヨーロッパに入ってくる以前から話されていた言語であるとされ(インド・ヨーロッパ語族言語でもないため)、言語学上、孤立した言語(言語的孤島)に分類されるのです。
by remona121 | 2005-07-22 19:09 | バスク

バスクって何?

さっそくバスクについて簡単に紹介したいと思います。

バスクとはスペインの自治州のひとつです。ピレネー山脈の西方にあり、スペイン語では「パイス・バスコ」、バスク語では「エウスカディ」といいます。バスク自治州はアラバ、ギプスコア、ビスカヤの3県からなっており、州都はアラバのビトリアです。

しかし、スペインのバスク自治州に限らず、「バスク人の住んでいるところ」をバスクと定義する考え方もあります。その場合、ナバーラ自治州とフランスのピレネー・アトランティック県の一部(スール、バス・ナバーラ、ラブールの旧3州)もバスクに含まれます。ちなみに、バスク人とは「バスク語を話す人々」のこと。しかし、今日この地域でバスク語を話す人口はスペイン側で約25%、フランス側では約10%に過ぎず、ほとんどはバスク語のほかにスペイン語またはフランス語を話すバイリンガルみたいです・・・。

ちなみにタイトルの「4+3=1」というのはスペイン・フランス両国の地域を合わせた7地域(スペイン:アラバ、ギプスコア、ビスカヤ、ナバーラ + フランス:スール、バス・ナバーラ、ラブール)が一つにまとまる!ということ。「Zazpiak Bat」はバスク語で「バスク領域が一つになる」というバスクのスローガンなのです。f0050553_2021307.jpg
by remona121 | 2005-07-20 19:23 | バスク