バスク青年団
2005年 10月 12日
久しぶりにこのブログのテーマであるバスクについての更新です。今回は19世紀後半から始まるバスクナショナリズム運動において、その中核ともいえる組織である「バスク青年団」について書きたいと思います。
19世紀後半、バスク地方はイベリア半島で屈指の重工業地帯へと成長を遂げました。それに伴い、カスティージャ・アンダルシア・ガリシアからの労働移民が急増します。労働移民の増加により、貧しい日雇い労働者や農民があふれ、また工業資本家とプロレタリアート(労働者階級)との対立が激化し、労働者組織が結成されるようになりました。彼らはのちにビルバオを中心としたバスク工業地帯を拠点に社会主義運動を展開するようになります。
↑以上のような社会変動が、バスク人に「バスクの言語や文化の消滅」という危機感を与え、バスク人にナショナリズム運動を促すことになるのです。そしてこの運動が「バスク民族主義党(PNV)」の運動につながります。
しかし、1923年以降、およそ10年間はプリモ・デ・リベラの軍事独裁政権により、バスクナショナリズム運動は弾圧され停止させられます。
しかし、ビルバオの「バスク青年団」はプリモ・デ・リベラ政権による弾圧に屈することなく運動を継続したのです。
[バスク青年団]とは:
⇒1904年1月10日、約400人のバスク人青年が集まり結成される。
⇒バスクナショナリズム運動の中核ともいえる組織。
⇒主な指導者:エリアス・ガジェステギ、ホセ・アントニオ・デ・アギレ
(↑バスク人初代大統領)
彼らは、運動が弾圧され禁止されたのちも、カトリック教会の任意団体と偽り密かに運動を続けていました。しかし、彼らの秘密会合が警察当局にばれると、多くの指導者が逮捕され厳しい弾圧を受けました。
彼らが弾圧を受けてまでバスクナショナリズム運動を続けた理由は何なのでしょうか??みなさんはどう思いますか?私はこれから研究を進めていくにあたり、この答えを見つけていけたらと思っています…
19世紀後半、バスク地方はイベリア半島で屈指の重工業地帯へと成長を遂げました。それに伴い、カスティージャ・アンダルシア・ガリシアからの労働移民が急増します。労働移民の増加により、貧しい日雇い労働者や農民があふれ、また工業資本家とプロレタリアート(労働者階級)との対立が激化し、労働者組織が結成されるようになりました。彼らはのちにビルバオを中心としたバスク工業地帯を拠点に社会主義運動を展開するようになります。
↑以上のような社会変動が、バスク人に「バスクの言語や文化の消滅」という危機感を与え、バスク人にナショナリズム運動を促すことになるのです。そしてこの運動が「バスク民族主義党(PNV)」の運動につながります。
しかし、1923年以降、およそ10年間はプリモ・デ・リベラの軍事独裁政権により、バスクナショナリズム運動は弾圧され停止させられます。
しかし、ビルバオの「バスク青年団」はプリモ・デ・リベラ政権による弾圧に屈することなく運動を継続したのです。
[バスク青年団]とは:
⇒1904年1月10日、約400人のバスク人青年が集まり結成される。
⇒バスクナショナリズム運動の中核ともいえる組織。
⇒主な指導者:エリアス・ガジェステギ、ホセ・アントニオ・デ・アギレ
(↑バスク人初代大統領)
彼らは、運動が弾圧され禁止されたのちも、カトリック教会の任意団体と偽り密かに運動を続けていました。しかし、彼らの秘密会合が警察当局にばれると、多くの指導者が逮捕され厳しい弾圧を受けました。
彼らが弾圧を受けてまでバスクナショナリズム運動を続けた理由は何なのでしょうか??みなさんはどう思いますか?私はこれから研究を進めていくにあたり、この答えを見つけていけたらと思っています…
by remona121
| 2005-10-12 22:53
| バスク