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スペインバスク地方とETAについてのblogです!でも最近は就活のこともupしたりしてます☆ぜひぜひコメント残していってください!


by remona121
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4.ポスト・フランコのバスク

4.ポスト・フランコのバスク

 4.1.自治州の誕生

 1975年、フランコが亡くなり、長年のETAとフランコの戦いは終わった。フランコ後の民主化により、1978年に新憲法が制定されたスペインでは、地方自治国家建設に踏み出し、バスク地方にも自治政府の設立が承認された。1937年にフランコに自治権を奪われてから実に40年ぶりのことである。また、同年9月にはバスク自治憲章がスペイン国会で承認された。この憲章に対するバスク3県での住民投票率は6割を超え、9割の賛成が得られた。そして、1980年3月に行われたバスク議会選挙の結果、PNVが第一党となり、4月30日には自治政府が発足する。PNVは地方自治を初めて単独で掌握したことになる。バスク自治州の領域は、アラバ・ビスカヤ・ギプスコアの3県で構成され、ナバーラについては、ナバーラが望むならバスク自治州への統合が可能とされた。しかし、ナバーラは1982年に単独で自治権を獲得し自治州となったため、バスク自治州へ統合されることはなかった。
 自治憲章の内容は、治安警察に代わりバスク自治警察の創設(第17条)、経済協約の復活(第41条)、イクリーニャをバスク自治州旗とする(第5条)などがある。また、第6条では、バスク語をカスティーリャ語とともにバスク自治州の公用語と定め、二言語公用語体制が認められた。


4.2.バスクとスペイン政府

 民主主義の回復と自治権が拡大しても、ETAのテロ活動を止めることはできなかった。まず彼らは、MLNV(バスク民族解放運動)とその政治部門のHB(民衆連合)を結成した。また、MLNVの指導権はKAS(社会主義祖国調整機関)が握り、KASはETA-mなどの左派集団で構成されていた。KASに参加しているグループは、その運動の取締りが強化されると、組織名を変えたり、改変したりして活動を続けていった。バスク人にとって、これらのETAの活動は、「バスク人である」という点においては共通の感情を持っているが、否定的な感情がその大半を占めていた。しかし、その中でもETAの支持者が集まるのは、1970年代のバスク地方の経済不況が原因になっていると考えられる。1973年の石油危機以来の長引く不況、失業率の増加、政治・社会混乱の中で、ETAの反国家精神は人々の不満のはけ口となっていたのである。一方、バスク自治政府は地方自治体制下で、州の公用語と認められたバスク語の普及、バスク自治警察の創設などに力を入れて、州独自の行政を展開していった。また、1982年のスペイン総選挙の結果、勝利した社会労働党政権(首相:ゴンザレス)は、継続するテロ攻撃に対して、内務省内に秘密組織GAL(反テロリスト解放グループ)を創設し、1987年までのおよそ4年間にわたり、ETAメンバーの殺害が相次いだ。政府がこのような不法な活動に関与していたことは長年証明されず、GALの犯罪行為が裁かれたのは1998年になってからのことである。
 1996年の総選挙で、保守派の国民党政権(首相:アスナール)が誕生した。アスナール政権はETAの包囲網を強化し、HBとETAが同じ組織の表裏であることを明らかにし、両組織の活動の資金源とみられる、日刊紙「エギン」を98年7月に強制的に発行停止とした。
 ETAのテロ路線がスペイン全体のみならず、バスク地方の住民の離反を招く大きなきっかけとなったのが、1997年7月にビスカヤ県エルムア市の議員ミゲール・アンヘル・ブランコの誘拐殺人事件であった。殺害予告時間前に、市民による訴え、テレビやラジオによる訴えを斥け、彼は殺害された。これを受け、マドリッドやバルセロナなどで200万人以上の抗議デモが行われ、ETAの孤立が決定的になったのだ。この状況を打開するためか、ETAは翌1998年9月に無期限・無条件停戦を発表し、1999年11月の停止まで、バスク和平の期待は膨らんだ。しかし、停戦中はテロ活動がなかったものの、ETAは組織を再編し、武器を充実させたと思われる。
 2000年に入り、ETAによるものと考えられるテロは継続していた。このころになると、軍や治安部隊幹部などを標的としてきたテロの矛先が、実業家や政治指導者へと変化し始めた。急増するテロについては、連続するテロを起こすことで、政府にバスク州の非常事態を宣言させ、反政府感情をあおる狙いがあると見られている。
 2002年6月、スペイン国会ではETAの政治活動を停止させるため、改正政党法が可決された。この新法により、検察庁はテロ擁護の政治団体について、最高裁に解散の是非の決定を求めることができるようになったのである。同年8月、アスナール政権はETAの政治部門とされるHBを解散させるべく法手続きを開始、同月、法案は可決された。つまり、HBは非合法政党とされ、解散が決定したのである。ETAはこれまで、3300件以上のテロを起こし、死者は836人に及んでいる。
 2004年3月11日、マドリッドで列車爆破テロが起こった。アルカイーダが犯行声明をアラブ圏の有力紙に送ったにもかかわらず、スペイン政府はETAによる犯行の可能性が最も高いという認識を示した。後に、アスナール首相が報道機関幹部に直接電話し、事件はETAの犯行だと伝えていたことが明らかになった。テロの正体を見誤った不手際が大きな痛手となったのか、同年3月14日に行われたスペイン総選挙の結果、アスナール率いる国民党は敗北し、社会労働党(首相:サパテロ)が第一党になった。
 同年末、自治州議会が独立を求める法案を可決したことから、2005年に入ると、バスク自治州での独立運動が急速に高まってきた。しかし、サパテロ首相はその要求を、1978年憲法の原則を踏みにじり、国家分裂を加速させるとして非難。バスク情勢は自治州と中央政府が全面対決する様相になった。また、ETAによる爆破テロが相次いだ。どの事件も事前に爆破予告があり、ETAは自らの存在感を主張するために行ったものと考えられる。
 2006年、3月22日、サパテロ政権が和平交渉開始の条件としていた武装解除に応じる形で、ETAが24日から恒久停戦を実施する方針を発表した。バスク地方の市民は、日常生活正常化への期待と中央政府の今後の対応への不安を抱いている。バスクはかつて独自の自治を認められながら、フランコ政権下でバスク的なものすべてが禁止された。そして自治が復活した後も続くETAのテロ活動により、バスク市民に対する警察当局の監視の目が強い。そのため、バスクの人々にとって中央政府への不信感は強く、今後の展開に不安を抱く市民も多い。また、今後の政府の対応は、バスク地方に限らずスペイン国内の民族問題に影響を与え、国の形を左右する可能性も秘めている。カタルーニャでは、自治州憲章に「カタルーニャを国と定義する」と盛り込んだ憲章改正案を国会に提出し、承認された。これを受け、バスクがカタルーニャに追随する可能性は高いと見られる。
 スペインからの独立を主張しているバスクだが、経済の見通しを考えると、国家的救済が必要で、自治政府の力だけでは解決できない問題もある。そのため、バスクの中でも独立を唱えるわけにはいかないという意見もあるのだ。スペイン政府の下での自治には満足していないが、バスク人としての権利が与えられている今、独立することは無謀だと考えるバスク人も多い。理想と現実の間でバスク人の心は揺れているのである。
by remona121 | 2007-01-09 22:06 | 卒業論文