スペインバスク地方とETAについてのblogです!でも最近は就活のこともupしたりしてます☆ぜひぜひコメント残していってください!


by remona121
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5.バスク語の復権

5.バスク語の復権

 5.1.バスク語衰退期

 バスク・ナショナリズムにおいて、バスク語はバスク人を特異化するものとして、象徴的に扱われてきた。しかし、バスク語話者の比率は減少してきている。ここでは、とくに19世紀のナショナリズム誕生以来、バスク語話者の比率がどのように変化してきたのか考える。
 19世紀後半の王政復古にともない、バスク地方はフエロ(地域特別法)を失い、スペインの一部に組み込まれた。スペイン政府はバスク地方に初等教育の学校を建設し、カスティーリャ語を義務として教えた。また、スペイン政府下でバスク人男子にも兵役義務が課せられ、彼らはカスティーリャ語を習得しなければならなくなった。そのため、バスク語話者は急激に減少していくことになる。また、工業発展にともなうバスク社会の変容は、バスク地方に大量の労働移民を招き、これもバスク語話者の比率を下げる原因となった。
 1936年からのスペイン内戦、フランコ独裁政権下でバスク語はさらに衰退していく。バスク地方はフランコにより自治権を廃止され、バスク語、バスク文化すべてが禁止された。そのため、公的な場でのバスク語の使用は、教会関係行事のみで許され、家族や友人との限られた空間で使用されるだけになった。19世紀後半には、アラバ、ナバーラのほとんどでバスク語が使用されなくなった。また、フランコ政権終了の1975年までには、ギプスコア、ビスカヤでのバスク語話者の比率が激減している。この結果から、およそ40年に及ぶフランコの独裁が、バスク語に及ぼした影響がいかに大きいものだったかがわかる。


5.2.バスク語復権へ

 1960年代、バスク語こそがバスク民族存在の証であり、バスク・ナショナリズムの象徴であると再確認され、バスク語復権運動が始まる。イカストラ(ikastola)と呼ばれるバスク語学校では、バスク語を使用してバスク語を教えるのが特徴であり、バスク語話者の減少が顕著な都市部を中心に展開された。また、1968年にバスク語アカデミーが「統一バスク語」を制定した。これは今日まで継続しているバスク語正書法整備の基礎である。
 フランコ死後の民主化の中で制定された1978年憲法において、バスク語はバスク自治州内における公用語に認定された。また、1979年に制定された「バスク自治憲章」においても、バスク語が国家公用語のカスティーリャ語とともにバスク自治州内で公用語の地位を享受することが認められている。しかし、バスク自治憲章の第3条には、カスティーリャ語を知る権利と義務をすべてのスペイン人が有するが、バスク語については、自治州の住民にそれを知る権利はあっても、それを知る義務はない、と書かれている。この点において、2つの公用語は認められてはいるが、その法的地位が対等ではないことが分かる。
 1982年、「バスク語使用の正常化に関する基本法」が制定され、バスク語とカスティーリャ語の2言語公用語体制が推進されるようになる。この法の下では、バスク住民は2言語のうち本人の選択する言語での教育を保障されるというものである。しかし実際は、バスク語の社会的諸機能を支援する積極的是正措置であり、バスク語の半義務化政策であった。
 半義務化政策の下で育った子供たちは、学校教育の中で統一バスク語を勉強してきた。自治州政府はバスク語を使用する運動を推進し、バスク語教育を通してバスクの共通意識を高めようとしてきた。これらの政策をバスク住民がどう捉えているのか分からない。しかし、バスク語正常化政策が開始されてから2001年までのおよそ20年間に、バスク語正常化を展開するバスク自治州でバスク語話者の比率が5%以上増加したのに対し、ナバーラ自治州ではほぼ横ばい、フランス領バスク地方では8%以上低下している。この数字からバスク自治州のバスク語正常化政策にある程度の効果があったといっていいだろう。
 バスク語に関しては、自分たちの民族性を決定づける大切な要素であり、バスク・ナショナリズムの象徴としているが、実際はバスク人すべてがバスク語を話せるわけではない。1980年代のバスク語正常化政策により、若年層のバスク語話者の比率は上がったが、バスク住民全体を見ると、住民のおよそ75%がカスティーリャ語のみを第一言語としているのが現状である。
by remona121 | 2007-01-09 22:05 | 卒業論文