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スペインバスク地方とETAについてのblogです!でも最近は就活のこともupしたりしてます☆ぜひぜひコメント残していってください!


by remona121
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ゼミ論ⅱ

4.バスク祖国と自由(ETA)

4.1.ETAの思想
 
バスク民族意識を抑圧するフランコ体制に対抗する組織として1959年に結成されたETAは、「いかなる政党、組織、機関からも独立し、祖国愛に基づく抵抗によって創設された、バスク民族解放のための革命的運動」(pp.172 L7)と自己定義され、結成されてから分裂・統合を繰り返していくことになる。
 結成当時のETAは組織化の時期であり、民族文化復興の動きが強く、過激な独立闘争は見られなかった。むしろ、バスク語の擁立、バスク大学の創設を訴えるなど、アラーナの初期思想に共通するものがあった。しかし、その後のETAの方向性は、バスク語アカデミー事務局長のクルトヴィヒの影響を大きく受けるようになる。クルトヴィヒは1963年に著書『バスコニア』を出版している。アラーナがバスク民族の独自性を定義づける客観的要素として、①血族、②言語、③統治と法、④気質と習慣、⑤歴史的人格の5つを挙げたのに対して、クルトヴィヒは①言語、②心性と文化、③宗教、④人種的構成、⑤経済的・社会的・物質的要因の5つを挙げた。こうして、バスク語こそがバスク民族存在の証であり、バスク・ナショナリズム運動の象徴であるとし、バスク語復権のために行動することが需要であるとされた。
バスク語復権運動の指標となったのが、バスク語アカデミーである。方言分化の著しいバスク語は河川をひとつ隔てただけでも違いが生じるほどで、バスク語の存続のためには正書法の整備が不可欠であった。そこで、バスク語アカデミーは1968年から正書法「統一バスク語euskara batuna」の制定作業を行った。その後現在に至るまで、バスク語教育の現場では、この統一バスク語が教えられている。
 1950年代以降、スペインは高度経済成長期に入る。重工業地帯を持つビスカヤ・ギプスコアには50年代後半から、また新工業地帯を立地させたアラバにも60年代から、非バスク系労働者が移入してくるようになる。バスク3県以外からの移入者の数は60年代に22万6000人を超え、住民のプロレタリアート化が進んだ。つまり、バスク・ナショナリズムは再び移入労働者の問題に悩まされることになったのだ。しかし、19世紀後半の反工業化を唱えた初期のナショナリズム運動と異なることは、ETAがバスク民族解放と労働者階級解放の連帯を図り、労働者階級解放を優先させたことである。そのため、ETAのナショナリズムには、バスク人のみならず、非バスク系労働者も動員された。また、バスク地方に住んでいるだけでも「バスク人」として弾圧を受けたことも、非バスク系労働者がETAのナショナリズムに参加した一つの理由である。その内訳は、2割弱が非バスク系の両親を持ち、4割は片親が非バスク系とされている。


4.2.ETAのテロ活動

 フランコによる厳しい弾圧の中で、「自分たちはバスク人である」という強い民族意識が高揚した。集会などを通してその意識はさらに高まり、壁画やバスク語による落書きなど「バスク的なもの」が公共の場に目立つようになってくる。また、都市部旧市街においては、バスク・ナショナリストと警察当局の衝突の場となった。
 その衝突の過激さを増したものが、ETAの武力闘争である。1961年、旧フランコ派の兵士たちが乗った列車への爆弾テロ行う。未遂に終わったが、これが最初の武力闘争であり、これにより警察当局によるETA狩りが本格化する。1968年、メリトン・マンサナス警部を暗殺。最初の犠牲者を出した事件であり、ここからETAの武力闘争は暗殺テロへと変わっていく。1973年、「ETAを壊滅する」という対ETA闘争宣言を発表したカレロ・ブランコ首相を暗殺。1974年、ETAが最初に起こした無差別テロであるローランド爆破事件などがある。
 これらの事件は一部の過激派指導者によるものとされているが、ETA全体のイメージを悪くし、ETA反対キャンペーンが高まる原因となるため、ETA内部でイデオロギー対立が起こりETAは大きく2派に分裂することになった。政治を無視した武力闘争のみを求める少数派グループであるETA-M(ETAミリタール)、政治的に大衆闘争を求める(政治闘争と武力闘争を同じ割合のもとに行う)ETA-PM(ETAポリティコ・ミリタール)である。この後、ETA-PMも銀行強盗や企業要人の誘拐などを行うようになり、ETA-PM内部でも過激派と穏健派に分裂することになる。
 1979年の自治政府の発足により、テロ活動は沈静化するかと思われたが、実際は11980年代に入り激化していく。また、このころには無差別テロの傾向が強くなり、観光地を狙ったテロを繰り返した。しかし、これらの爆破は観光客に死傷者がでないほどの小規模なものだった。そのような爆破を行う理由は、①政治的要求が公表できるため、②いずれも事前に警察当局に予告することで、大きな注目を集めることが出来るからである。彼らの目的は、独立のために戦う自分たちの姿を世界中に示すことであった。そのため、大規模な爆破で被害者を出すことは、①ETAの過激な活動に反対する政府キャンペーンを高めることになる、②スペインにおいて国民の支持が得られなくなる、③バスク地方での信頼を失いかねない、というリスクをともなう。彼らが事前予告をして小規模テロ活動を繰り返す理由はここにあるのだろう。


4.3.自治州の誕生

 1975年、フランコが亡くなり、長年のETAとフランコの戦いは終わった。フランコ対抗勢力としてのバスク・ナショナリズムは、活動の理由をフランコへの対抗意識とすることが出来なくなった。そして、共通意識が欠け結束力の低下からか、PNV以外の新たな政治勢力が誕生している。ETA-PM寄りのEE(バスク左翼)と、ETA-M寄りのHB(人民統一)である。両者ともバスク・ナショナリスト急進左派に位置づけられる。
 1979年3月、総選挙が行われた結果、自治政府の設立が承認された。1937年にフランコに自治権を奪われてから実に40年ぶりのことである。また、同年9月にはバスク自治憲章がスペイン国会で承認された。この憲章に対するバスク3県での住民投票率は6割を超え、9割の賛成が得られた。そして、1980年3月に行われたバスク議会選挙の結果、PNVが第一党となり、4月30日には自治政府が発足する。PNVは地方自治を初めて単独で掌握したことになる。バスク自治州の領域は、アラバ・ビスカヤ・ギプスコアの3県で構成され、ナバーラについては、ナバーラが望むならバスク自治州への統合が可能とされた。しかし、ナバーラは1982年に単独で自治権を獲得し自治州となったため、バスク自治州へ統合されることはなかった。
 自治憲章の内容は、治安警察に代わりバスク自治警察の創設(第17条)、経済協約の復活(第41条)、イクリーニャをバスク自治州旗とする(第5条)などがある。また、第6条では、バスク語をカスティーリャ語とともにバスク自治州の公用語と定め、二言語公用語体制が認められた。



まとめ

 以上述べてきたように、バスク・ナショナリズムの起源は、19世紀後半のバスク地方工業化による社会・経済の変化であり、バスク独自の言語・伝統が消滅してしまうという危機感であった。
初期のナショナリズムはアラーナによって確立され、バスク民族を決定づけるものはバスク語や生活習慣ではなく、何よりも血族であるとした。一方、その後登場するクルトヴィヒは、バスク語こそがバスク民族を決定付ける第一の要素であるとし、バスク民族とバスク語は切っても切れない関係であることを主張した。また、工業化によって非バスク化が進む都市部と伝統的生活が残っている農村部では、バスク・ナショナリズムに対する意識に違いが見られた。その後、フランコの弾圧に抗する組織としてETAが成立する。ETA内部でもイデオロギーの相違による分裂や統合などが繰り返され、共通の目標に向かって活動してきたわけではない。
つまり、どの時代を見ても、バスク・ナショナリズムの定義は一つではなかった。むしろ、その時代や地域的特性によりその定義は曖昧であり、そこに住む人々の意識も違っていたと言えるだろう。バスク語に関しても、自分たちの民族性を決定づける大切な要素としつつ、実際バスク語話者数は減少していて、すべてのバスク人がカスティーリャ語を知っているのが現状である。
このように、ナショナリズムの思想は変化し続け、地域的にその意識には違いがあり、バスク地方全域に共通の思想ではないことが分かった。今後、スペインの中のバスクという認識からスペインの一部であるという考えが浸透するかもしれないし、再びバスク語・バスク伝統社会の消滅を危惧して、さらにナショナリズムが発展するかもしれない。これからどうなっていくかは、バスク内部だけの問題ではなく、スペイン政府の対応・スペイン政府との関係によっても大きく違ってくるのではないかと思う。


〈参考文献〉

・大泉光一(1993)「バスク民族の抵抗」新潮社
・立石博高・中塚次郎 編(2002)
 「スペインにおける国家と地域―ナショナリズムの相克」国際書院
   「第5章 変容するバスク・ナショナリズムとその多様性」(萩尾生 著)pp145-190
・渡部哲郎(2004)「バスクとバスク人」平凡社


2006年3月31日
by remona121 | 2006-03-31 03:30 | バスク