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スペインバスク地方とETAについてのblogです!でも最近は就活のこともupしたりしてます☆ぜひぜひコメント残していってください!


by remona121
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ゼミ論ⅰ

3月末に書いたゼミ論を載せてみました。 現代については調べてません。 これはこれからの課題ですねぇ・・・。 興味のある方は読んでみてください☆

1.バスクとは

1.1.バスク地方

バスクとはスペインの自治州のひとつで、アラバ、ギプスコア、ビスカヤの3県で構成されている。ピレネー山脈の西方にあり、スペイン語では「パイス・バスコPaís Vasco」、バスク語では「エウスカディEuskadi」と呼ばれる。また、スペインのバスク自治州に限らず、「バスク人の住んでいるところ」をバスクと定義する考え方もある。その場合、スペインのナバーラ自治州とフランスの3領域(スール、バス・ナバーラ、ラブール)を合わせた計7地域をバスクと呼ぶ。これら7地域はそれぞれ独自の歴史を歩んできた。そして7地域が1つの独立した政治共同体を構成したことは、歴史上ほぼ皆無に等しい。「7つは1つZazpiak Bat」というスローガンが叫ばれるなか、7地域が「バスク地方」であるという意識、バスク民族としての一体感を持つようになったのは、実は19世紀末以降のことなのである。この意識の高揚、一体感の高まりがバスク・ナショナリズムの原点となる。長い歴史を有していそうなバスク・ナショナリズムだが、その歴史はたかだか100年余りなのである。


1.2.バスク人

「バスクBasque/vasco」という呼び名は、バスク人以外の人がバスク人を指す他称である。バスク人の自称は「バスク語を話す人々」という意味のエウスカルドゥナクeuskaldunakであり、また「バスク語以外を話す人々」をエルダルドゥナクerdaldunakという。形質人類学的観点からバスク人を見てみると、血液型はヨーロッパ人に多いA型は少なくO型が圧倒的に多い。またRhマイナス遺伝子頻度が0.5を越す、世界的にも珍しい特徴を持つ。しかし、その系譜は以前明らかにされていない。


1.3.バスク語

 「エウスカラeuskara」と呼ばれるバスク語は、スペイン語やフランス語などラテン語に起源を持つロマンス語の言語に囲まれているにもかかわらず、その構造はまったく異なり、世界のどの言語にも類を見ないきわめて独特な言語である。バスク語の起源についてはさまざまな説があるが、あくまで仮定に過ぎず決定的な証拠がないため、言語学上孤立した言語(言語的孤島)に分類される。
 このようにバスク語の起源を定められないのは、バスク語が16世紀中葉に至るまで、文字の記録を残さなかった口承言語だからである。そのため表記の上ではラテン語のアルファベットに頼らざるを得ず、隣接する言語の影響を強く受けるようになっていく。バスク語本来の語彙の中には抽象概念を表す語や、最近使うようになった道具などを表す語が存在しないため、それらを表すために、ラテン語とそこから派生したスペイン語やフランス語などのロマンス語系言語からの借用が多く見られる。しかし、その起源についてはやはり謎に包まれたままであり、このことはバスク人を特異な存在に際立たせている。



2.バスク・ナショナリズムの誕生と拡大

2.1.バスク・ナショナリズムの誕生

 バスク・ナショナリズム誕生の主な要因は、バスク地方のフエロ(地域特別法)撤廃(1876年)と、19世紀後半の工業化発展にともなうバスク社会の変容だと考えられている。
 スペイン王位継承問題に発した第一次カルリスタ戦争は、バスク地方を拠点とするカルロスと彼の支持者であるカルリスタ側の敗北に終わった。1841年にはナバーラがスペインへ統合され、ナバーラはスペイン国内でフエロを存続させていく。第三次カルリスタ戦争が終結すると、1876年憲法によって、中央政府により王政復古体制の基盤が築かれた。そして、1876年7月21日法で、バスク3県(アラバ・ギプスコア・ビスカヤ)のフエロは全面廃止され、バスク3県はスペイン国家の1地域、スペイン中央政府の1行政単位となり、中央政府に対し納税・兵役等の義務も負うことになった。
 その後バスク地方は中央政府下で、従来から蓄積されたバスクの金融・商業資本を製鉄に投資し、隣接するアストゥリアス地方の石炭と結合してイベリア半島で屈指の重工業地帯へと成長していく。しかし、その工業化とともに、旧カスティージャ、ガリシア、アンダルシアなどからの移民労働者が大量移入してくる。1877年から1900年の間に、バスク3県の人口は45万人から60万4000人へと34%増加した。とくにビスカヤへの移入者が多く、1900年代に入ると首都ビルバオでは人口の47.2%もの人がバスク地方以外からの移住者によって占められるほどだった。
 このような急激な移民労働者の増加は、伝統的なバスク社会や生活を破壊し、バスク語が日常生活から離れるのを加速させた。これはバスクの人々に、独自の文化や言語の消滅につながるとの危機感をもたらした。このような危機感がバスクの人々に、自分たちは「バスク人」であるという意識を目覚めさせることになる。この意識を政治的に操作したのが、バスク・ナショナリズムである。そして彼らは、バスク語とバスク文化の保持・地方自治権をスローガンに、サビーノ・デ・アラーナを中心としてナショナリズム運動を開始することになるのである。


2.2.サビーノ・デ・アラーナの思想

 バスク・ナショナリズムのイデオロギー創始者でバスク・ナショナリズムの父と呼ばれているサビーノ・デ・アラーナは、1865年にビスカヤの中心都市ビルバオに生まれた。教育熱心だった両親のおかげで中等過程に進学するのを契機に全寮制の中等過程に入学し、そこでの生活を通して彼の確固たる思想を形成したといわれている。その後、バルセロナ大学に進学し、在学中にカタルーニャの独立運動に共鳴し、ビスカヤに戻ってからはバスク地方の歴史や文化・バスク語の研究を始めた。研究を通して、他のバスク地域でもビスカヤと同じように、自分たちがバスク人種「エウスコタルEuzkotar」であるという共通の意識を持つことを発見し、バスク地方をバスク国家群が構成する連邦国家として、エウスコタルの祖国「バスク国Euskadi」とした。
アラーナは1893年にララサバル・デ・バゴナ初めて政策演説を行い、政治運動の目的はバスク地方の独立であるという展望を明らかにした。翌1894年には、バツォーキ・バスク人民センターEuskeldun Batzokijaを創設し、これが1895年のバスク民族主義党(PNV)へと発展する。
 「バスク語、バスク文化、バスク民族の主張」という彼の思想は彼が亡くなった後も受け継がれていった。しかし、彼は晩年に「バスク地方の政治的自治の主張」へと思想を転換したため、彼の思想は後継者たちによって多様に解釈され、PNV内では分離独立志向の伝統保守派と地方自治志向のブルジョワ・リベラル派という2つの派閥を生み、今日に至るまで分岐と合流を繰り返している。アラーナの思想はバスク・ナショナリズムの基礎を築いたと言われるが、全バスク人から支持を得ていたわけではない。ナショナリズムが誕生した当時から、ナショナリストとそうでない者とが存在したことも忘れてはいけない。


2.3.初期のバスク・ナショナリズム

 既述したように、19世紀後半にはビスカヤを中心にバスク地方は工業発展し、大量の労働者が移入してきた。このバスクの工業発展は、スペイン近代化で大きな役割を果たし、ビスカヤはスペイン経済を牽引するほどに成長した。一方、労働移民の増加により、貧しい労働者や農民があふれ、また工業資本家とプロレタリアート(労働者階級)との対立が激化し、労働者組織が結成されるようになった。彼らはのちにビルバオを中心としたバスク工業地帯を拠点に、反工業化を唱えて社会主義運動を展開するようになる。このような初期バスク・ナショナリズムは、1930年以前にはビスカヤ特有の現象であった。1904年にはギプスコアに、1907年にはアラバにもPNVの拠点が開設されたが、ギプスコアには第二共和制期、アラバにはスペイン内戦ごろまで、その政治的影響力は及ばなかった。
 また、初期バスク・ナショナリズムは、都市部と農村部で温度差が見られた。なぜなら、初期バスク・ナショナリズムは消滅しつつあるバスク伝統の回復を求める都市現象であり、伝統が守られている農村部ではそのような運動は必要なかったのである。しかし、徐々に農村部でも近代化進むと、人々はナショナリズム運動を通して、自分たちの伝統・文化を再認識していった。
 このように、初期のバスク・ナショナリズムは地域的に多様で、バスク内部でもナショナリズムに対する意識は同じものではなかったということができるだろう。


2.4.初期バスク・ナショナリズムにおけるPNVの活動

 20世紀初頭、PNV内部では分離独立派と地方自治派の対立が激化した。1908年の党大会では、バスク語・バスク文化の主張というアラーナの初期の思想が再確認されたが、その後、彼の晩年の思想である「スペイン国家内部での独立」が公認され、PNVの政策はバスクの地方自治へと修正された。これを受け、サビーノ・デ・アラーナの兄ルイス・デ・アラーナはこの政策に反対し、1915年にPNVを脱退している。また、分離独立派が再び分離し、ルイス・デ・アラーナとともに新PNVを結成する。1916年には、PNVはバスク・ナショナリスト協同団(CNV)へと改名し、その活動範囲を政治のみならずさまざまな社会領域へ広げていった。このように、CNVと新PNVに分裂していたが、1930年11月16日に再びPNVとして統一される。しかし結局、同月30日にCNVの流れを汲む一団が、保守派の打破を目指して分派し、バスク・ナショナリスト行動党(ANV)を創設することになる。
 バスク・ナショナリズム継承のために、青年層と女性も参加させられた。1904年には約400人のバスク人青年を集めてバスク青年団が結成される。彼らは、バスク・ナショナリズム運動が弾圧され停止させられたプリモ・デ・リベーラの軍事独裁政権きに、カトリック教会の任意団体と偽り密に運動を続け、音楽と舞踊を通してバスク・ナショナリズムの思想を継承する役割を担った。彼らはバスク・ナショナリズム運動の中核ともいえる組織であり、後にバスク独立派と連帯していく。また女性層は、1922年にバスク女性愛国会議(EAB)を発足させ、バスク・ナショナリズムの家庭への普及を促したといえる。
 バスク・ナショナリズムの政治的中心を担うPNVだが、ナショナリズムに対する意識の違いから派閥を生み、脱退する者や新組織の結成は繰り返されていく。しかし、やはりPNV無くしては今後のバスク・ナショナリズムの存続はなかったといってもいいだろう。



3.バスク自治憲章・自治政府の成立

3.1.自治憲章・自治政府の成立

 1931年4月、統一地方選挙が行われ、その結果、王政が廃止されスペイン第二共和国政府が誕生した。共和制は地方分権に寛容で、バスク語の教育・文化にとって有利に働き、バスク・ナショナリズム運動が一気に再開した。また、PNVは共和国政府にバスク地方自治を認めさせるよう計画していた。PNVの新代表ホセ・アントニオ・アギーレは、1931年6月にバスク3県とナバーラ県の市町村長を集め、バスク4県をほぼ独立した国とする内容の自治憲章(エステーリャ憲章)案を作成する。そして、バスク4県の市町村長、全528票中427票の賛同を獲得し、この憲章案を国会へ提出した。しかし、この憲章案は却下された。その一方で、共和国政府は1931年12月8日にバスク自治憲章案の作成方法を定め、バスク4県では再び自治憲章作成が進められ1932年3月に完成する。しかし、この憲章案はナバーラの賛同を得られず、ナバーラは他のバスク3県自治州への併合を拒否したのである。
バスク3県から賛同を得たものの、憲章案の承認はなかなか進展しなかった。1936年、再び総選挙が行われ、人民戦線派が勝利した。そして、人民戦線とPNVの間でバスク自治憲章をめぐる合意が生まれた。同年7月、スペイン内戦が勃発する。PNVは自治憲章案の成立を信じ、人民戦線率いる共和国側に忠誠を誓った。そして、スペイン内戦勃発からおよそ3ヶ月後の10月1日、バスク自治憲章が国会でようやく可決され公布されるに至った。自治憲章が可決された6日後にはホセ・アントニオ・アギーレを初代大統領としてバスク自治政府が誕生する。彼はゲルニカにある聖なるオークの木の下で大統領の宣誓を行い、バスク自治政府が成立したのである。
しかし、1937年6月19日のフランコ軍の攻撃によってビルバオが陥落すると、同月27日にはビスカヤとギプスコアの地方自治権を廃止し、バスク自治政府は亡命政府となってしまう。その後、亡命政府はバルセロナ・フランス・ニューヨークと活動拠点を移動するが、もはや政治的な力は残っていなかった。
このように、短期間で自治権を失ってしまったバスク自治政府だが、一時的でも自治政府を成立させたことはバスク・ナショナリストに自信を与えることになり、彼らは今後も活動を続けていくのである。


3.2.バスクとスペイン内戦

 1936年7月18日、スペイン各地で軍のクーデターが勃発、フランコ将軍がクーデター宣言を行い、スペインは2年8ヶ月に及ぶスペイン内戦に突入する。スペイン本土は共和国政府地域と反乱軍(フランコ軍)地域に分割され、バスク地方も二分された(ビスカヤとギプスコアが共和国側、アラバとナバーラがフランコ側)。既に述べたように、PNVは自治憲章を成立させるべく共和国政府に忠誠を誓った。
 フランコ将軍は全面戦争の最初の標的としてゲルニカを選んだ。ゲルニカが標的とされた理由は、ゲルニカがバスクの文化的伝統の中心地であり、アギーレが大統領の宣誓を行った場所で、バスク自治の象徴とされる聖なるオークの木があるからだろう。1937年4月26日、ドイツのコンドル飛行部隊によって爆撃されると、ゲルニカは町の71%を焼失し、人口7000人のうち約2000人(28.6%)が犠牲になった。このゲルニカ爆撃の知らせがフランコに伝わると、その責任を否定し、バスク軍が自らガソリンを撒いて破壊したのだ、という声明を発表した。その後、パリにいたピカソがこの事件を聞き、爆撃で亡くなった人間や動物をモチーフに、パリ万国博のスペイン館の壁画に描いた作品が、あの有名な『ゲルニカ』である。
 ゲルニカ陥落後、バスク軍の最後の拠点であるビルバオもドイツのコンドル飛行部隊による空襲を受け、1937年6月19日に陥落する。そして27日には、共和国陣営を支持したビスカヤとギプスコアの地方自治権が廃止され、バスク自治政府は亡命政府となる。一方、フランコ陣営を支持したアラバとナバーラでは経済協約などが温存された。
 フランコにより自治権を廃止されたバスクでは、バスク語は禁止され、そればかりか「バスク的なもの」すべてが禁止された。厳しい弾圧はバスク地方内部で、「バスク民族意識」の継承につながった。しかし他方では、内戦を体験していない若い世代の中から、敗戦後のPNVの無力さを批判し、過去の「バスク民族意識」に反発する動きが見られるようになってきた。このような若い世代は、1952年にビルバオでEKIN(着手)を結成して、地下活動を始める。そして、PNV青年部との協力、またイデオロギー対立からの分裂を経て、1959年7月31日に「バスク祖国と自由(ETA=Euskadi Ta Askatasuna)」が結成されることになる。フランコ体制による武力弾圧から自分たちを守るために、彼らにとってなくてはならない組織だったといえる。
by remona121 | 2006-03-31 03:31 | バスク