スペインバスク地方とETAについてのblogです!でも最近は就活のこともupしたりしてます☆ぜひぜひコメント残していってください!


by remona121
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カテゴリ:バスク( 18 )

卒論

久しぶりにブログ書きま~す。 まぁ、毎回久しぶりだけど・・・^^;

最近の私はというと、卒論や内定先で出された課題など、イロイロやらなきゃいけないことがあるのに、11月に日商簿記③級の試験を受けてきました。 外国語学部の私は、経済などまったく無縁の世界で大学3年間を過ごしてきましたが、もうすぐ社会人だし就職したら会計のこととか少しは分かっていたほうがいいな~と思い、4月から経理の授業をとり、 その授業で勉強した成果を試すべく、試験を受けたのです。 授業だけでは、試験範囲が全然終わってなかったので、バイトもせず、卒論も後回しで勉強した結果、見事合格することができました~☆ 2月にリベンジはしたくなかったので、今回合格できてホントよかった♪

そして、先週から本格的に卒論に取り掛かりました。 いや~卒論って大変ですね・・・。 周りの友達が焦っている中、何にもしていなかった私は全然焦る事もなく今まで過ごしてきたので、始めてみてヤバイと思いました。 でも、今日一通り書き終わり、さっき先生にメールを送りました。 添削してもらったら、また完成に向けて頑張らないと・・・!

これが今年最後の更新になると思います。
Have a very merry Christmas & Happy New Year!!! ^▽^
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by remona121 | 2006-12-21 18:50 | バスク

ゼミ論ⅰ

3月末に書いたゼミ論を載せてみました。 現代については調べてません。 これはこれからの課題ですねぇ・・・。 興味のある方は読んでみてください☆

1.バスクとは

1.1.バスク地方

バスクとはスペインの自治州のひとつで、アラバ、ギプスコア、ビスカヤの3県で構成されている。ピレネー山脈の西方にあり、スペイン語では「パイス・バスコPaís Vasco」、バスク語では「エウスカディEuskadi」と呼ばれる。また、スペインのバスク自治州に限らず、「バスク人の住んでいるところ」をバスクと定義する考え方もある。その場合、スペインのナバーラ自治州とフランスの3領域(スール、バス・ナバーラ、ラブール)を合わせた計7地域をバスクと呼ぶ。これら7地域はそれぞれ独自の歴史を歩んできた。そして7地域が1つの独立した政治共同体を構成したことは、歴史上ほぼ皆無に等しい。「7つは1つZazpiak Bat」というスローガンが叫ばれるなか、7地域が「バスク地方」であるという意識、バスク民族としての一体感を持つようになったのは、実は19世紀末以降のことなのである。この意識の高揚、一体感の高まりがバスク・ナショナリズムの原点となる。長い歴史を有していそうなバスク・ナショナリズムだが、その歴史はたかだか100年余りなのである。


1.2.バスク人

「バスクBasque/vasco」という呼び名は、バスク人以外の人がバスク人を指す他称である。バスク人の自称は「バスク語を話す人々」という意味のエウスカルドゥナクeuskaldunakであり、また「バスク語以外を話す人々」をエルダルドゥナクerdaldunakという。形質人類学的観点からバスク人を見てみると、血液型はヨーロッパ人に多いA型は少なくO型が圧倒的に多い。またRhマイナス遺伝子頻度が0.5を越す、世界的にも珍しい特徴を持つ。しかし、その系譜は以前明らかにされていない。


1.3.バスク語

 「エウスカラeuskara」と呼ばれるバスク語は、スペイン語やフランス語などラテン語に起源を持つロマンス語の言語に囲まれているにもかかわらず、その構造はまったく異なり、世界のどの言語にも類を見ないきわめて独特な言語である。バスク語の起源についてはさまざまな説があるが、あくまで仮定に過ぎず決定的な証拠がないため、言語学上孤立した言語(言語的孤島)に分類される。
 このようにバスク語の起源を定められないのは、バスク語が16世紀中葉に至るまで、文字の記録を残さなかった口承言語だからである。そのため表記の上ではラテン語のアルファベットに頼らざるを得ず、隣接する言語の影響を強く受けるようになっていく。バスク語本来の語彙の中には抽象概念を表す語や、最近使うようになった道具などを表す語が存在しないため、それらを表すために、ラテン語とそこから派生したスペイン語やフランス語などのロマンス語系言語からの借用が多く見られる。しかし、その起源についてはやはり謎に包まれたままであり、このことはバスク人を特異な存在に際立たせている。



2.バスク・ナショナリズムの誕生と拡大

2.1.バスク・ナショナリズムの誕生

 バスク・ナショナリズム誕生の主な要因は、バスク地方のフエロ(地域特別法)撤廃(1876年)と、19世紀後半の工業化発展にともなうバスク社会の変容だと考えられている。
 スペイン王位継承問題に発した第一次カルリスタ戦争は、バスク地方を拠点とするカルロスと彼の支持者であるカルリスタ側の敗北に終わった。1841年にはナバーラがスペインへ統合され、ナバーラはスペイン国内でフエロを存続させていく。第三次カルリスタ戦争が終結すると、1876年憲法によって、中央政府により王政復古体制の基盤が築かれた。そして、1876年7月21日法で、バスク3県(アラバ・ギプスコア・ビスカヤ)のフエロは全面廃止され、バスク3県はスペイン国家の1地域、スペイン中央政府の1行政単位となり、中央政府に対し納税・兵役等の義務も負うことになった。
 その後バスク地方は中央政府下で、従来から蓄積されたバスクの金融・商業資本を製鉄に投資し、隣接するアストゥリアス地方の石炭と結合してイベリア半島で屈指の重工業地帯へと成長していく。しかし、その工業化とともに、旧カスティージャ、ガリシア、アンダルシアなどからの移民労働者が大量移入してくる。1877年から1900年の間に、バスク3県の人口は45万人から60万4000人へと34%増加した。とくにビスカヤへの移入者が多く、1900年代に入ると首都ビルバオでは人口の47.2%もの人がバスク地方以外からの移住者によって占められるほどだった。
 このような急激な移民労働者の増加は、伝統的なバスク社会や生活を破壊し、バスク語が日常生活から離れるのを加速させた。これはバスクの人々に、独自の文化や言語の消滅につながるとの危機感をもたらした。このような危機感がバスクの人々に、自分たちは「バスク人」であるという意識を目覚めさせることになる。この意識を政治的に操作したのが、バスク・ナショナリズムである。そして彼らは、バスク語とバスク文化の保持・地方自治権をスローガンに、サビーノ・デ・アラーナを中心としてナショナリズム運動を開始することになるのである。


2.2.サビーノ・デ・アラーナの思想

 バスク・ナショナリズムのイデオロギー創始者でバスク・ナショナリズムの父と呼ばれているサビーノ・デ・アラーナは、1865年にビスカヤの中心都市ビルバオに生まれた。教育熱心だった両親のおかげで中等過程に進学するのを契機に全寮制の中等過程に入学し、そこでの生活を通して彼の確固たる思想を形成したといわれている。その後、バルセロナ大学に進学し、在学中にカタルーニャの独立運動に共鳴し、ビスカヤに戻ってからはバスク地方の歴史や文化・バスク語の研究を始めた。研究を通して、他のバスク地域でもビスカヤと同じように、自分たちがバスク人種「エウスコタルEuzkotar」であるという共通の意識を持つことを発見し、バスク地方をバスク国家群が構成する連邦国家として、エウスコタルの祖国「バスク国Euskadi」とした。
アラーナは1893年にララサバル・デ・バゴナ初めて政策演説を行い、政治運動の目的はバスク地方の独立であるという展望を明らかにした。翌1894年には、バツォーキ・バスク人民センターEuskeldun Batzokijaを創設し、これが1895年のバスク民族主義党(PNV)へと発展する。
 「バスク語、バスク文化、バスク民族の主張」という彼の思想は彼が亡くなった後も受け継がれていった。しかし、彼は晩年に「バスク地方の政治的自治の主張」へと思想を転換したため、彼の思想は後継者たちによって多様に解釈され、PNV内では分離独立志向の伝統保守派と地方自治志向のブルジョワ・リベラル派という2つの派閥を生み、今日に至るまで分岐と合流を繰り返している。アラーナの思想はバスク・ナショナリズムの基礎を築いたと言われるが、全バスク人から支持を得ていたわけではない。ナショナリズムが誕生した当時から、ナショナリストとそうでない者とが存在したことも忘れてはいけない。


2.3.初期のバスク・ナショナリズム

 既述したように、19世紀後半にはビスカヤを中心にバスク地方は工業発展し、大量の労働者が移入してきた。このバスクの工業発展は、スペイン近代化で大きな役割を果たし、ビスカヤはスペイン経済を牽引するほどに成長した。一方、労働移民の増加により、貧しい労働者や農民があふれ、また工業資本家とプロレタリアート(労働者階級)との対立が激化し、労働者組織が結成されるようになった。彼らはのちにビルバオを中心としたバスク工業地帯を拠点に、反工業化を唱えて社会主義運動を展開するようになる。このような初期バスク・ナショナリズムは、1930年以前にはビスカヤ特有の現象であった。1904年にはギプスコアに、1907年にはアラバにもPNVの拠点が開設されたが、ギプスコアには第二共和制期、アラバにはスペイン内戦ごろまで、その政治的影響力は及ばなかった。
 また、初期バスク・ナショナリズムは、都市部と農村部で温度差が見られた。なぜなら、初期バスク・ナショナリズムは消滅しつつあるバスク伝統の回復を求める都市現象であり、伝統が守られている農村部ではそのような運動は必要なかったのである。しかし、徐々に農村部でも近代化進むと、人々はナショナリズム運動を通して、自分たちの伝統・文化を再認識していった。
 このように、初期のバスク・ナショナリズムは地域的に多様で、バスク内部でもナショナリズムに対する意識は同じものではなかったということができるだろう。


2.4.初期バスク・ナショナリズムにおけるPNVの活動

 20世紀初頭、PNV内部では分離独立派と地方自治派の対立が激化した。1908年の党大会では、バスク語・バスク文化の主張というアラーナの初期の思想が再確認されたが、その後、彼の晩年の思想である「スペイン国家内部での独立」が公認され、PNVの政策はバスクの地方自治へと修正された。これを受け、サビーノ・デ・アラーナの兄ルイス・デ・アラーナはこの政策に反対し、1915年にPNVを脱退している。また、分離独立派が再び分離し、ルイス・デ・アラーナとともに新PNVを結成する。1916年には、PNVはバスク・ナショナリスト協同団(CNV)へと改名し、その活動範囲を政治のみならずさまざまな社会領域へ広げていった。このように、CNVと新PNVに分裂していたが、1930年11月16日に再びPNVとして統一される。しかし結局、同月30日にCNVの流れを汲む一団が、保守派の打破を目指して分派し、バスク・ナショナリスト行動党(ANV)を創設することになる。
 バスク・ナショナリズム継承のために、青年層と女性も参加させられた。1904年には約400人のバスク人青年を集めてバスク青年団が結成される。彼らは、バスク・ナショナリズム運動が弾圧され停止させられたプリモ・デ・リベーラの軍事独裁政権きに、カトリック教会の任意団体と偽り密に運動を続け、音楽と舞踊を通してバスク・ナショナリズムの思想を継承する役割を担った。彼らはバスク・ナショナリズム運動の中核ともいえる組織であり、後にバスク独立派と連帯していく。また女性層は、1922年にバスク女性愛国会議(EAB)を発足させ、バスク・ナショナリズムの家庭への普及を促したといえる。
 バスク・ナショナリズムの政治的中心を担うPNVだが、ナショナリズムに対する意識の違いから派閥を生み、脱退する者や新組織の結成は繰り返されていく。しかし、やはりPNV無くしては今後のバスク・ナショナリズムの存続はなかったといってもいいだろう。



3.バスク自治憲章・自治政府の成立

3.1.自治憲章・自治政府の成立

 1931年4月、統一地方選挙が行われ、その結果、王政が廃止されスペイン第二共和国政府が誕生した。共和制は地方分権に寛容で、バスク語の教育・文化にとって有利に働き、バスク・ナショナリズム運動が一気に再開した。また、PNVは共和国政府にバスク地方自治を認めさせるよう計画していた。PNVの新代表ホセ・アントニオ・アギーレは、1931年6月にバスク3県とナバーラ県の市町村長を集め、バスク4県をほぼ独立した国とする内容の自治憲章(エステーリャ憲章)案を作成する。そして、バスク4県の市町村長、全528票中427票の賛同を獲得し、この憲章案を国会へ提出した。しかし、この憲章案は却下された。その一方で、共和国政府は1931年12月8日にバスク自治憲章案の作成方法を定め、バスク4県では再び自治憲章作成が進められ1932年3月に完成する。しかし、この憲章案はナバーラの賛同を得られず、ナバーラは他のバスク3県自治州への併合を拒否したのである。
バスク3県から賛同を得たものの、憲章案の承認はなかなか進展しなかった。1936年、再び総選挙が行われ、人民戦線派が勝利した。そして、人民戦線とPNVの間でバスク自治憲章をめぐる合意が生まれた。同年7月、スペイン内戦が勃発する。PNVは自治憲章案の成立を信じ、人民戦線率いる共和国側に忠誠を誓った。そして、スペイン内戦勃発からおよそ3ヶ月後の10月1日、バスク自治憲章が国会でようやく可決され公布されるに至った。自治憲章が可決された6日後にはホセ・アントニオ・アギーレを初代大統領としてバスク自治政府が誕生する。彼はゲルニカにある聖なるオークの木の下で大統領の宣誓を行い、バスク自治政府が成立したのである。
しかし、1937年6月19日のフランコ軍の攻撃によってビルバオが陥落すると、同月27日にはビスカヤとギプスコアの地方自治権を廃止し、バスク自治政府は亡命政府となってしまう。その後、亡命政府はバルセロナ・フランス・ニューヨークと活動拠点を移動するが、もはや政治的な力は残っていなかった。
このように、短期間で自治権を失ってしまったバスク自治政府だが、一時的でも自治政府を成立させたことはバスク・ナショナリストに自信を与えることになり、彼らは今後も活動を続けていくのである。


3.2.バスクとスペイン内戦

 1936年7月18日、スペイン各地で軍のクーデターが勃発、フランコ将軍がクーデター宣言を行い、スペインは2年8ヶ月に及ぶスペイン内戦に突入する。スペイン本土は共和国政府地域と反乱軍(フランコ軍)地域に分割され、バスク地方も二分された(ビスカヤとギプスコアが共和国側、アラバとナバーラがフランコ側)。既に述べたように、PNVは自治憲章を成立させるべく共和国政府に忠誠を誓った。
 フランコ将軍は全面戦争の最初の標的としてゲルニカを選んだ。ゲルニカが標的とされた理由は、ゲルニカがバスクの文化的伝統の中心地であり、アギーレが大統領の宣誓を行った場所で、バスク自治の象徴とされる聖なるオークの木があるからだろう。1937年4月26日、ドイツのコンドル飛行部隊によって爆撃されると、ゲルニカは町の71%を焼失し、人口7000人のうち約2000人(28.6%)が犠牲になった。このゲルニカ爆撃の知らせがフランコに伝わると、その責任を否定し、バスク軍が自らガソリンを撒いて破壊したのだ、という声明を発表した。その後、パリにいたピカソがこの事件を聞き、爆撃で亡くなった人間や動物をモチーフに、パリ万国博のスペイン館の壁画に描いた作品が、あの有名な『ゲルニカ』である。
 ゲルニカ陥落後、バスク軍の最後の拠点であるビルバオもドイツのコンドル飛行部隊による空襲を受け、1937年6月19日に陥落する。そして27日には、共和国陣営を支持したビスカヤとギプスコアの地方自治権が廃止され、バスク自治政府は亡命政府となる。一方、フランコ陣営を支持したアラバとナバーラでは経済協約などが温存された。
 フランコにより自治権を廃止されたバスクでは、バスク語は禁止され、そればかりか「バスク的なもの」すべてが禁止された。厳しい弾圧はバスク地方内部で、「バスク民族意識」の継承につながった。しかし他方では、内戦を体験していない若い世代の中から、敗戦後のPNVの無力さを批判し、過去の「バスク民族意識」に反発する動きが見られるようになってきた。このような若い世代は、1952年にビルバオでEKIN(着手)を結成して、地下活動を始める。そして、PNV青年部との協力、またイデオロギー対立からの分裂を経て、1959年7月31日に「バスク祖国と自由(ETA=Euskadi Ta Askatasuna)」が結成されることになる。フランコ体制による武力弾圧から自分たちを守るために、彼らにとってなくてはならない組織だったといえる。
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by remona121 | 2006-03-31 03:31 | バスク

ゼミ論ⅱ

4.バスク祖国と自由(ETA)

4.1.ETAの思想
 
バスク民族意識を抑圧するフランコ体制に対抗する組織として1959年に結成されたETAは、「いかなる政党、組織、機関からも独立し、祖国愛に基づく抵抗によって創設された、バスク民族解放のための革命的運動」(pp.172 L7)と自己定義され、結成されてから分裂・統合を繰り返していくことになる。
 結成当時のETAは組織化の時期であり、民族文化復興の動きが強く、過激な独立闘争は見られなかった。むしろ、バスク語の擁立、バスク大学の創設を訴えるなど、アラーナの初期思想に共通するものがあった。しかし、その後のETAの方向性は、バスク語アカデミー事務局長のクルトヴィヒの影響を大きく受けるようになる。クルトヴィヒは1963年に著書『バスコニア』を出版している。アラーナがバスク民族の独自性を定義づける客観的要素として、①血族、②言語、③統治と法、④気質と習慣、⑤歴史的人格の5つを挙げたのに対して、クルトヴィヒは①言語、②心性と文化、③宗教、④人種的構成、⑤経済的・社会的・物質的要因の5つを挙げた。こうして、バスク語こそがバスク民族存在の証であり、バスク・ナショナリズム運動の象徴であるとし、バスク語復権のために行動することが需要であるとされた。
バスク語復権運動の指標となったのが、バスク語アカデミーである。方言分化の著しいバスク語は河川をひとつ隔てただけでも違いが生じるほどで、バスク語の存続のためには正書法の整備が不可欠であった。そこで、バスク語アカデミーは1968年から正書法「統一バスク語euskara batuna」の制定作業を行った。その後現在に至るまで、バスク語教育の現場では、この統一バスク語が教えられている。
 1950年代以降、スペインは高度経済成長期に入る。重工業地帯を持つビスカヤ・ギプスコアには50年代後半から、また新工業地帯を立地させたアラバにも60年代から、非バスク系労働者が移入してくるようになる。バスク3県以外からの移入者の数は60年代に22万6000人を超え、住民のプロレタリアート化が進んだ。つまり、バスク・ナショナリズムは再び移入労働者の問題に悩まされることになったのだ。しかし、19世紀後半の反工業化を唱えた初期のナショナリズム運動と異なることは、ETAがバスク民族解放と労働者階級解放の連帯を図り、労働者階級解放を優先させたことである。そのため、ETAのナショナリズムには、バスク人のみならず、非バスク系労働者も動員された。また、バスク地方に住んでいるだけでも「バスク人」として弾圧を受けたことも、非バスク系労働者がETAのナショナリズムに参加した一つの理由である。その内訳は、2割弱が非バスク系の両親を持ち、4割は片親が非バスク系とされている。


4.2.ETAのテロ活動

 フランコによる厳しい弾圧の中で、「自分たちはバスク人である」という強い民族意識が高揚した。集会などを通してその意識はさらに高まり、壁画やバスク語による落書きなど「バスク的なもの」が公共の場に目立つようになってくる。また、都市部旧市街においては、バスク・ナショナリストと警察当局の衝突の場となった。
 その衝突の過激さを増したものが、ETAの武力闘争である。1961年、旧フランコ派の兵士たちが乗った列車への爆弾テロ行う。未遂に終わったが、これが最初の武力闘争であり、これにより警察当局によるETA狩りが本格化する。1968年、メリトン・マンサナス警部を暗殺。最初の犠牲者を出した事件であり、ここからETAの武力闘争は暗殺テロへと変わっていく。1973年、「ETAを壊滅する」という対ETA闘争宣言を発表したカレロ・ブランコ首相を暗殺。1974年、ETAが最初に起こした無差別テロであるローランド爆破事件などがある。
 これらの事件は一部の過激派指導者によるものとされているが、ETA全体のイメージを悪くし、ETA反対キャンペーンが高まる原因となるため、ETA内部でイデオロギー対立が起こりETAは大きく2派に分裂することになった。政治を無視した武力闘争のみを求める少数派グループであるETA-M(ETAミリタール)、政治的に大衆闘争を求める(政治闘争と武力闘争を同じ割合のもとに行う)ETA-PM(ETAポリティコ・ミリタール)である。この後、ETA-PMも銀行強盗や企業要人の誘拐などを行うようになり、ETA-PM内部でも過激派と穏健派に分裂することになる。
 1979年の自治政府の発足により、テロ活動は沈静化するかと思われたが、実際は11980年代に入り激化していく。また、このころには無差別テロの傾向が強くなり、観光地を狙ったテロを繰り返した。しかし、これらの爆破は観光客に死傷者がでないほどの小規模なものだった。そのような爆破を行う理由は、①政治的要求が公表できるため、②いずれも事前に警察当局に予告することで、大きな注目を集めることが出来るからである。彼らの目的は、独立のために戦う自分たちの姿を世界中に示すことであった。そのため、大規模な爆破で被害者を出すことは、①ETAの過激な活動に反対する政府キャンペーンを高めることになる、②スペインにおいて国民の支持が得られなくなる、③バスク地方での信頼を失いかねない、というリスクをともなう。彼らが事前予告をして小規模テロ活動を繰り返す理由はここにあるのだろう。


4.3.自治州の誕生

 1975年、フランコが亡くなり、長年のETAとフランコの戦いは終わった。フランコ対抗勢力としてのバスク・ナショナリズムは、活動の理由をフランコへの対抗意識とすることが出来なくなった。そして、共通意識が欠け結束力の低下からか、PNV以外の新たな政治勢力が誕生している。ETA-PM寄りのEE(バスク左翼)と、ETA-M寄りのHB(人民統一)である。両者ともバスク・ナショナリスト急進左派に位置づけられる。
 1979年3月、総選挙が行われた結果、自治政府の設立が承認された。1937年にフランコに自治権を奪われてから実に40年ぶりのことである。また、同年9月にはバスク自治憲章がスペイン国会で承認された。この憲章に対するバスク3県での住民投票率は6割を超え、9割の賛成が得られた。そして、1980年3月に行われたバスク議会選挙の結果、PNVが第一党となり、4月30日には自治政府が発足する。PNVは地方自治を初めて単独で掌握したことになる。バスク自治州の領域は、アラバ・ビスカヤ・ギプスコアの3県で構成され、ナバーラについては、ナバーラが望むならバスク自治州への統合が可能とされた。しかし、ナバーラは1982年に単独で自治権を獲得し自治州となったため、バスク自治州へ統合されることはなかった。
 自治憲章の内容は、治安警察に代わりバスク自治警察の創設(第17条)、経済協約の復活(第41条)、イクリーニャをバスク自治州旗とする(第5条)などがある。また、第6条では、バスク語をカスティーリャ語とともにバスク自治州の公用語と定め、二言語公用語体制が認められた。



まとめ

 以上述べてきたように、バスク・ナショナリズムの起源は、19世紀後半のバスク地方工業化による社会・経済の変化であり、バスク独自の言語・伝統が消滅してしまうという危機感であった。
初期のナショナリズムはアラーナによって確立され、バスク民族を決定づけるものはバスク語や生活習慣ではなく、何よりも血族であるとした。一方、その後登場するクルトヴィヒは、バスク語こそがバスク民族を決定付ける第一の要素であるとし、バスク民族とバスク語は切っても切れない関係であることを主張した。また、工業化によって非バスク化が進む都市部と伝統的生活が残っている農村部では、バスク・ナショナリズムに対する意識に違いが見られた。その後、フランコの弾圧に抗する組織としてETAが成立する。ETA内部でもイデオロギーの相違による分裂や統合などが繰り返され、共通の目標に向かって活動してきたわけではない。
つまり、どの時代を見ても、バスク・ナショナリズムの定義は一つではなかった。むしろ、その時代や地域的特性によりその定義は曖昧であり、そこに住む人々の意識も違っていたと言えるだろう。バスク語に関しても、自分たちの民族性を決定づける大切な要素としつつ、実際バスク語話者数は減少していて、すべてのバスク人がカスティーリャ語を知っているのが現状である。
このように、ナショナリズムの思想は変化し続け、地域的にその意識には違いがあり、バスク地方全域に共通の思想ではないことが分かった。今後、スペインの中のバスクという認識からスペインの一部であるという考えが浸透するかもしれないし、再びバスク語・バスク伝統社会の消滅を危惧して、さらにナショナリズムが発展するかもしれない。これからどうなっていくかは、バスク内部だけの問題ではなく、スペイン政府の対応・スペイン政府との関係によっても大きく違ってくるのではないかと思う。


〈参考文献〉

・大泉光一(1993)「バスク民族の抵抗」新潮社
・立石博高・中塚次郎 編(2002)
 「スペインにおける国家と地域―ナショナリズムの相克」国際書院
   「第5章 変容するバスク・ナショナリズムとその多様性」(萩尾生 著)pp145-190
・渡部哲郎(2004)「バスクとバスク人」平凡社


2006年3月31日
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by remona121 | 2006-03-31 03:30 | バスク

ETAの資金源

またまた久しぶりの更新andこれが今年最後の更新になりそうです。

今回はタイトルのとおり、ETAの資金源についてです。ETAの主な資金源は、革命税・身代金・銀行強盗です。一つずつ説明していきます。


〔革命税〕
 ETAの資金のほとんどを補っているのが革命税です。
 まず、ETA執行委員会の組織である財政機構で、革命税の支払いを強要する人物または企業が選ばれます。そしてその人物または企業についての資産調査が行われます。次にそれをETA執行委員会で協議し、最終的な要求額と支払い金額を決定し脅迫状を送るのです。脅迫状を送られる人物・企業はバスク人またはバスクの企業と思われます。
 次に革命税の相場について。
・企業もしくは経営者:平均5000万~1億ペセタ(7000万~1億4000万円)
・医師、弁護士、自由業:平均500万~1000万ペセタ(700万~1400万円)
 ↑この金額は支払いを要求された人物または企業の総資産のうち1~5%。先ほど書いたように、資産調査がしっかり行われ、革命税の支払いによって経済的負担や破産したりすることのないように配慮されているのです。
 一方、革命税を要求されたら・・・
要求された人物または企業は、金額を少しでも減らすためにETAメンバーと直接交渉するのが慣例です。この交渉によってかなり安い支払いで済む場合もあります。ETAは3回まで手紙で脅迫してきます。交渉により減額されることはありますが、3回の脅迫状を無視して支払わなければ、自宅や会社に爆弾を仕掛けられたり暗殺は免れないようです。
ちなみに、1984.7.19の週刊誌「Euskadi」のアンケートによると、バスク地方の企業経営者のうち71%はすでに革命税を支払ったという報告もあります。

〔身代金〕 
革命税の次に重要な資金源です。「身代金」というくらいなので、もちろん誘拐によって請求します。その標的は大企業の経営者や銀行のオーナーなど。もちろん、ほとんどはバスク地方出身者です。身代金の平均相場は6億ペセタ。革命税とは比べものにならない額です。また、交渉による減額もほとんどありません。一括払いだけでなく、分割払いという選択肢もあるようですが、すでに身柄が拘束されているので支払わないと確実に命は狙われます。

〔銀行強盗
 「簡単に資金稼ぎができる」という理由で銀行強盗も行います。
 ヨーロッパ諸国の中で最も銀行強盗の発生件数が多い国であるスペインでは、ETAによる犯行も多いとされていますが、ほとんどは一般犯罪者によるものです。


以上、ETAの主な資金源について説明しました。「革命税」なんていう響きのいい名前がついていますが、結局は脅迫によるものです。恐ろしい・・・。
一つ気になることは、この記事の資料が20年くらい前のものだということ。つまり、今のETAについてどうなのかが分からないのです。新しい資料を見つけなきゃな・・・と思います。そして早く、研究テーマを絞らなくてはと考え中です。次回の更新もしばらく先のことになりそうだなぁ…
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by remona121 | 2005-12-28 17:24 | バスク
1983年、テロ組織(=ETA)をテロする組織GAL(Grupos Antiteroristas de Liberación=反テロリスト解放グループ)が創設されました。これはテロ活動が活発化し犠牲者が急増している状況に対し、スペイン内務省が極秘に創設したものです。GALの創設は1983年ですが、実はその10年前くらいから「反ETAテロ組織」がスペイン内務省によって結成されていて、GALはその延長に創設されました。

創設後、GALはフランス警察当局へ協力するように正式要請しました。というのは、国境を越えればスペイン警察の手が及ぶことはないので、ETAの本部がフランスにあったのです。フランスの協力もあり、GALは解散(1987.7)までの約4年間にフランス側バスク領内で、ETA活動家に対して40件の攻撃を行い、27名を暗殺、27名を負傷させました。

GALのメンバーはフランス・英国・アルジェリア・ポルトガルの4カ国から20数人を集めて構成されました。彼らは標的とした人物の重要度により、一人暗殺につき最低200万ペセタから最高1000万ペセタの報酬を支払うことを約束されていました。この活動資金源は公式には明らかにされていませんが、ほぼ間違いなくスペイン内務省だと言われています。GAL解散までの約4年間に、スペイン内務省がGALに投入した資金総額はおよそ40億ペセタと言われており、これは臨時に雇った暗殺実行部隊のメンバーに報酬として支払われたようです。使用した武器は主にライフル銃、カービン銃、およびピストルで、車爆弾も使用されました。このテロ方法はETAと同じです。

当初GALは身元不明の極右テロ集団と言われていました。しかし、最高責任者とその部下の逮捕により、政府とのつながりが問題視され、自動的に解散せざるを得なくなったのです。二人とも懲役100年以上の極刑に処せられ、政府側にも調査が入ったようです。

政府によってテロ組織が創設されたということが驚きですねぇ~ETAとスペイン政府の関係についてはもっと調べていきたいと思っています。
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by remona121 | 2005-12-01 00:35 | バスク

ETAの活動

お久しぶりです。忙しいとの理由で3週間も放置してしまいました。今日、ゼミの発表も終わり、研究も少し進んだのでこれから随時書いていきます。とりあえず今日はフランコ時代のETAの活動についてお話します。

ETAは「バスク民族意識を抑圧するフランコ体制に対抗する組織」として1959年に結成されました。その後フランコが亡くなる1975年までのETAの主な活動について調べてみました。ここで言う「活動」とはいわゆるテロ活動のことです。

1961年旧フランコ派の兵士たちが乗った列車への爆弾テロ。これは未遂に終わりましたがETAによる最初の武力闘争です。
このテロ攻撃により、警察によるETA狩りが開始されます。

1968年メリトン・マンサナス警部の暗殺。メリトン・マンサナスは、ギプスコアの治安警備隊の政治犯担当部長だった人です。この事件は、当時ETAの最高責任者であったハビエル・エチェバリタが警察によって殺害されたことへの報復として行われました。これは最初の犠牲者を出した事件で、この事件をきっかけにETAの武力闘争は暗殺テロへと変わっていきます。
このテロを受け、フランコ政府はバスク地方中心に非常事態宣言を発表し、「ETA封じ込め作戦」を決行します。これにより1ヶ月間で600人以上の反体制活動家が逮捕されました。

1973年カレロ・ブランコ首相暗殺。フランコの後継者として就任したカレロ・ブランコは、就任演説で「ETAを壊滅する」という対ETA闘争宣言を発表しました。この宣言に対し、ETAはブランコを暗殺することで応えたのでした。

1974年ローランド爆破事件。これはETAが最初に起こした無差別テロで、12名の死者と80名の負傷者を出しました。この事件は、一部の過激派指導者によるものとされています。しかし、このようなテロ活動はETA全体のイメージを悪くしたり、ETA反対キャンペーンが高まる原因となるということで、ETA内でイデオロギー対立が起こりETAは大きく二派に分裂します。まず、ETA-M(ミリタール)。これは、政治を無視した武力闘争のみを求める少数派過激グループです。そしてもう一つは、ETA-PM(ポリティコ・ミリタール)。こちらは、政治的に大衆闘争を求める…つまり、政治闘争と武力闘争を同じ割合のもとに行うことを主張するグループです。とは言っても、この後ETA-PMも銀行強盗や企業要人の誘拐など行うようになり、ETA-PMの中でも過激派と穏健派に分かれます。
このようにETA内でも実はイデオロギー対立があり、色々な派閥があります。

そして1975年、フランコが亡くなります。これにより、長年のETAとフランコの戦いは終わります。しかしその後もETAは形を変えて継続していきます。

1977年、総選挙が行われ、新政権はバスク地方に暫定的自治政府の設立を承認します。これを受け、1979年にバスクに再び正式な自治政府が成立し、バスクは再び自治州となるのです。(1937年にフランコに自治権を奪われてから40年ぶりのことです。)

1979年の自治政府発足により、テロ活動は沈静化するように思われましたが、実際は80年代に入り激化していきます。またこのころには無差別テロの傾向が強くなっていきます。
1979年以降、彼らはたびたび観光地を狙ったテロを行いました。しかし、この爆破は小規模で観光客に死傷者はいませんでした。では、何のためにテロを行ったのでしょうか??
その理由は…
①政治的要求が公表できるため
②いずれも事前に警察当局に予告することで、大きな注目を集めることが出来るため
彼らの目的は観光客を殺すことではなく、独立のために戦う自分たちの姿を世界中に示すことなのです。そのため、大規模な爆破をし被害者を多く出すことは、
①ETAの過激な活動に反対する政府キャンペーンの高まり
②スペインにおいて国民の支持が得られなくなる
③バスク地方でHB(ETAの事実上の政治部門)の信頼を失いかねない
などというリスクがあるため避けていました。事前予告and小規模爆破の理由はここにあります。

これらのETAの活動にスペイン政府側も放っておくわけはなく、その取締りは厳しくなっていきました。
そんな状況の下、GALという組織が創設されたのです。これについては次回の更新で書きたいと思います。


ここまでまとめて、今日のゼミの発表で指摘されたこと・感じたこと…
・スペイン内戦について、その流れや全体像を把握すること
・スペイン史(政党や政権について)を、バスク側から調べるだけでなく、一連   の流れとして知らなければならないということ
・最終的に何を突き詰めて研究していくのかということ
以上の3点です。この反省を活かし今後研究を進めていくつもりです。

ブログを読んでいただいて、前後のつながりなどよく分からないとこがあるかと思いますが、勉強不足なのでお許しください。
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by remona121 | 2005-11-26 01:24 | バスク

バスクとスペイン内戦

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みなさんは、この絵を見たことがありますか?
これは1937年にピカソによって描かれた『ゲルニカ』という作品です。マドリッドにあるソフィア王妃芸術センター(Centro de Arte Reina Sofia)で本物を見ることができます。

ゲルニカはスペイン内戦中の1937年4月26日、ドイツのコンドル飛行部隊によって爆撃された、バスクの文化的伝統の中心地です。前回書いたように、アギレが大統領の宣誓を行った場所であり、バスク自治の象徴である聖なる「オークの木」があるところです。
この爆撃でゲルニカは町の71%を焼失し、人口7000人のうち約2000人(28.6%)が犠牲になりました。このゲルニカ爆撃の知らせがフランコに伝わると、彼はその責任を否定し、バスク軍が自らガソリンを撒いて破壊したのだ、という声明を発表しました。その後、パリにいたピカソがこの事件を聞き、爆撃で亡くなった人間や動物をモチーフに、パリ万国博のスペイン館の壁画にこの作品『ゲルニカ』を制作し、世界中に戦争の悲劇と恐怖を伝えることになったのです。
ゲルニカ陥落後、バスク軍の最後の拠点ビルバオもドイツのコンドル飛行部隊による空襲を受け、6月19日に陥落します。そして6月27日にはフランコ国民戦線軍(反乱軍)はビスカヤとギプスコアの地方自治特権を廃止し、バスク自治政府は亡命政府となってしまいます。その後、亡命政府はバルセロナ・フランス・ニューヨークと活動拠点を移動しますが、もはや政治的な力は持っていませんでした。
フランコにより自治権を廃止されたバスクでは、バスク語は禁止され、そればかりかバスク的なもの全てが禁止されました。また、バスク人民戦線側を支持したカトリック教の神父たちの中には死刑に処せられる者もいて、このバスクに対する弾圧は海外のカトリック教徒にも衝撃を与え、フランコ政権に対する抗議が集中しました。
第二次世界大戦が終わった1945年、バスク亡命政府は国連やユネスコにフランコ政権による弾圧を訴えましたが、それが受け入れられることはありませんでした。
国連などに受け入れられないことが分かると、バスク民族主義党青年部の中からこの状態を自分たちでどうにかしよう!と立ち上がる者が出てきて、彼らによって1959年「バスク祖国と自由(ETA=Euskadi Ta Askatasuna)」が結成されることになったのです。
一方、アギレは翌年の3月22日に亡命先のフランスで亡くなってしまいました。

このような過程を経て、「バスク祖国と自由(ETA)」は結成されました。フランコ政権による武力弾圧に抵抗するためには、必要な組織だったのだと思います。しかし、ETAは1960年代末からテロ活動を活発化させ、その犠牲者は800人にのぼります。そのため、スペイン政府による取締り、弾圧も厳しくなっていったのです。

ETAの詳細については少しずつupしていく予定です。
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by remona121 | 2005-10-28 16:04 | バスク
1931年4月、統一地方選挙が行われました。その結果、王政が廃止されスペイン第二共和国政府が誕生、これとともにバスク・ナショナリズム運動が一気に再開しました。そして、バスク民族主義党(PNV)のうち、バスク独立を求める左派勢力が保守派の打破を目指して分派し、バスク・ナショナリスタ行動党(ANV)を創設しました。
同じ年、第二共和国政府はバスク地方に自治憲章の作成を指令します。1933年11月、その自治憲章案はナバラを除くアラバ・ギプスコア・ビスカヤの住民投票の結果95.89%の賛成を得て認められました。これにより、アラバ・ギプスコア・ビスカヤの3県がバスク史上初めて法的に自治州として認められたのです。一方、バスク3県へのナバラ併合問題は、ナバラで行われた住民投票の結果、全体の53%の反対により実現しませんでした。

1936年7月18日、スペイン各地で軍のクーデターが勃発、フランコ将軍がクーデター宣言を行い、2年8ヶ月に及ぶスペイン内戦に突入します。スペイン本土は共和国政府地域と反乱軍地域に分割され、バスク民族主義党(PNV)は共和国政府に忠誠を誓いました。スペイン内戦勃発からおよそ3ヵ月後の1936年10月1日、バレンシアに移転した共和国政府議会でバスク自治憲章の公布がようやく公布されました。
そして、ゲルニカで行われたバスク人民代表会議で、バスク自治政府の初代大統領にホセ・アントニオ・デ・アギレ・イ・レクベが選ばれました。彼はゲルニカにある聖なるオーク木の下で次のような宣誓を行い、バスク自治政府が誕生したのです。

 Jaungoiluaren aurrean apalik,
 (神の御前に、敬虔に)
 Euzkolur ganian Zutunik,
 (バスクの大地に立ち)
 Asabearen gomutaz
 (祖先の思い出とともに)
 Gernika'ko Zuaizpian
 (ゲルニカの木の下で誓います)
 Nere aginduba Ondo betetzia Zin dagit.
 (私の任務を忠実に果たすことを)


[ホセ・アントニオ・デ・アギレ・イ・レクベ]
→1904年生まれ
→父親はサビノ・アラナとともにバスク民族主義党(PNV)を設立
→プリモ・デ・リベラ独裁政権時代にバスク青年団の指導者として弾圧を受
 けながらナショナリズム運動を行う
→1931年、ビスカヤのグェチョの町長に選ばれる
→第二共和国国会議員となり、バスク自治権獲得を訴えた


ついにバスク地方が法的に自治州として認められました。しかし、フランコ将軍によって彼らの自由も長くは続かないのです。せっかく自治州として認められたのに…
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by remona121 | 2005-10-20 21:01 | バスク

バスク青年団

久しぶりにこのブログのテーマであるバスクについての更新です。今回は19世紀後半から始まるバスクナショナリズム運動において、その中核ともいえる組織である「バスク青年団」について書きたいと思います。

19世紀後半、バスク地方はイベリア半島で屈指の重工業地帯へと成長を遂げました。それに伴い、カスティージャ・アンダルシア・ガリシアからの労働移民が急増します。労働移民の増加により、貧しい日雇い労働者や農民があふれ、また工業資本家とプロレタリアート(労働者階級)との対立が激化し、労働者組織が結成されるようになりました。彼らはのちにビルバオを中心としたバスク工業地帯を拠点に社会主義運動を展開するようになります。
↑以上のような社会変動が、バスク人に「バスクの言語や文化の消滅」という危機感を与え、バスク人にナショナリズム運動を促すことになるのです。そしてこの運動が「バスク民族主義党(PNV)」の運動につながります。
しかし、1923年以降、およそ10年間はプリモ・デ・リベラの軍事独裁政権により、バスクナショナリズム運動は弾圧され停止させられます。
しかし、ビルバオの「バスク青年団」はプリモ・デ・リベラ政権による弾圧に屈することなく運動を継続したのです。

[バスク青年団]とは:
  ⇒1904年1月10日、約400人のバスク人青年が集まり結成される。
  ⇒バスクナショナリズム運動の中核ともいえる組織。
  ⇒主な指導者:エリアス・ガジェステギ、ホセ・アントニオ・デ・アギレ
                            (↑バスク人初代大統領)

彼らは、運動が弾圧され禁止されたのちも、カトリック教会の任意団体と偽り密かに運動を続けていました。しかし、彼らの秘密会合が警察当局にばれると、多くの指導者が逮捕され厳しい弾圧を受けました。


彼らが弾圧を受けてまでバスクナショナリズム運動を続けた理由は何なのでしょうか??みなさんはどう思いますか?私はこれから研究を進めていくにあたり、この答えを見つけていけたらと思っています…
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by remona121 | 2005-10-12 22:53 | バスク
サビノ・アラナ・ゴイリ
彼はバスク・ナショナリズムのイデオロギー創始者でバスク・ナショナリズムの父と呼ばれています。サビノ・アラナは1865年、ビスカヤの中心都市ビルバオに生まれました。教育熱心だった両親のおかげで、中等課程に進学するのを契機に全寮制の中等課程に入学します。彼はここでの5年間の生活で、彼の確固たる思想を形成したといわれています。
その後、サビノ・アラナはバルセロナ大学に進学します。在学中にカタルニアの独立運動に共鳴し、ビスカヤに戻ってからはバスク地方の歴史や文化・バスク語の研究を始めました。1893年、ララサバル・デ・バゴナで初めて政策演説を行い、そこで政治運動の目的はバスク地方の独立であるという展望を明らかにしました。
1894年、バツォーキ・バスク人民センターを創設し、1898年にはビスカヤで地方議員に初当選しました。その後もサビノ・アラナは、バスク民族国家(エウスカディ Euzkadi)樹立を目指した政治活動の中で、雑誌やバスク地方紙に過激な記事を掲載し、刑務所への出入を繰り返しました。彼は彼の青春時代をもっぱらバスク・ナショナリズム運動に注ぎ、1903年、若干38歳の若さで病に冒され亡くなりました。

サビノ・アラナが亡くなったのち、彼の思想とバスク・ナショナリズム運動は彼の友人に受け継がれましたが、1895年には彼の思想が基礎となってバスク民族主義党(PNV)が創立されました。

サビノ・アラナはバスク民族国家樹立を目指した政治活動のほかに、「Euzkadi(バスク)」、「La Patria(祖国)」などの雑誌の創刊なども行い、バスクの歴史上忘れてはならない人物の一人です。
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by remona121 | 2005-09-18 20:54 | バスク