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スペインバスク地方とETAについてのblogです!でも最近は就活のこともupしたりしてます☆ぜひぜひコメント残していってください!


by remona121
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3.バスク祖国と自由(ETA)

3.バスク祖国と自由(ETA)

3.1.ETAの思想
 
 バスク民族意識を抑圧するフランコ体制に対抗する組織として1959年に結成されたETAは、「いかなる政党、組織、機関からも独立し、祖国愛に基づく抵抗によって創設された、バスク民族解放のための革命的運動」と自己定義され、結成されてから分裂・統合を繰り返していくことになる。
 結成当時のETAは組織化の時期であり、民族文化復興の動きが強く、過激な独立闘争は見られなかった。むしろ、バスク語の擁立、バスク大学の創設を訴えるなど、アラーナの初期思想に共通するものがあった。しかし、その後のETAの方向性は、バスク語アカデミー事務局長のクルトヴィヒの影響を大きく受けるようになる。クルトヴィヒは1963年に著書『バスコニア』を出版している。アラーナがバスク民族の独自性を定義づける客観的要素として、①血族、②言語、③統治と法、④気質と習慣、⑤歴史的人格の5つを挙げたのに対して、クルトヴィヒは①言語、②心性と文化、③宗教、④人種的構成、⑤経済的・社会的・物質的要因の5つを挙げた。こうして、バスク語こそがバスク民族存在の証であり、バスク・ナショナリズム運動の象徴であるとし、バスク語復権のために行動することが需要であるとされた。
 バスク語復権運動の指標となったのが、バスク語アカデミーである。方言分化の著しいバスク語は河川をひとつ隔てただけでも違いが生じるほどで、バスク語の存続のためには正書法の整備が不可欠であった。そこで、バスク語アカデミーは1968年から正書法「統一バスク語euskara batuna」の制定作業を行った。その後現在に至るまで、バスク語教育の現場では、この統一バスク語が教えられている。
 1950年代以降、スペインは高度経済成長期に入る。重工業地帯を持つビスカヤ・ギプスコアには50年代後半から、また新工業地帯を立地させたアラバにも60年代から、非バスク系労働者が移入してくるようになる。バスク3県以外からの移入者の数は60年代に22万6000人を超え、住民のプロレタリアート化が進んだ。つまり、バスク・ナショナリズムは再び移入労働者の問題に悩まされることになったのである。しかし、19世紀後半の反工業化を唱えた初期のナショナリズム運動と異なることは、ETAがバスク民族解放と労働者階級解放の連帯を図り、労働者階級解放を優先させたことである。そのため、ETAのナショナリズムには、バスク人のみならず、非バスク系労働者も動員された。また、バスク地方に住んでいるだけで「バスク人」として弾圧を受けたことも、非バスク系労働者がETAのナショナリズムに参加した理由の1つである。


3.2.ETAのテロ活動

 フランコによる厳しい弾圧の中で、「自分たちはバスク人である」という強い民族意識が高揚した。集会などを通してその意識はさらに高まり、壁画やバスク語による落書きなど「バスク的なもの」が公共の場に目立つようになってくる。また、都市部旧市街においては、バスク・ナショナリストと警察当局の衝突の場となった。
 その衝突の過激さを増したものが、ETAの武力闘争である。1961年、旧フランコ派の兵士たちが乗った列車への爆弾テロ行う。未遂に終わったが、これが最初の武力闘争であり、これにより警察当局によるETA狩りが本格化する。1968年、メリトン・マンサナス警部を暗殺。最初の犠牲者を出した事件であり、ここからETAの武力闘争は暗殺テロへと変わっていく。1973年、「ETAを壊滅する」という対ETA闘争宣言を発表したカレロ・ブランコ首相を暗殺。1974年、ETAが最初に起こした無差別テロであるローランド爆破事件などがある。
 これらの事件は一部の過激派指導者によるものとされているが、ETA全体のイメージを悪くし、ETA反対キャンペーンが高まる原因となるため、ETA内部でイデオロギー対立が起こりETAは大きく2派に分裂することになった。政治を無視した武力闘争のみを求める少数派グループであるETA-M(ETAミリタール)、政治的に大衆闘争を求める(政治闘争と武力闘争を同じ割合のもとに行う)ETA-PM(ETAポリティコ・ミリタール)である。この後、ETA-PMも銀行強盗や企業要人の誘拐などを行うようになり、ETA-PM内部でも過激派と穏健派に分裂することになる。
 1979年の自治政府の発足により、テロ活動は沈静化するかと思われたが、実際は1980年代に入り激化していく。また、このころには無差別テロの傾向が強くなり、観光地を狙ったテロを繰り返した。しかし、これらの爆破は観光客に死傷者がでないほどの小規模なものだった。そのような爆破を行う理由は、1.政治的要求が公表できるから、2.いずれも事前に警察当局に予告することで、大きな注目を集めることが出来るからである。彼らの目的は、独立のために戦う自分たちの姿を世界中に示すことであった。そのため、大規模な爆破で被害者を出すことは、1.ETAの過激な活動に反対する政府キャンペーンを高めることになる、2.スペインにおいて国民の支持が得られなくなる、3.バスク地方での信頼を失いかねない、というリスクをともなう。彼らが事前予告をして小規模テロ活動を繰り返す理由はここにあるのだろう。


3.3.反テロリスト解放グループGAL

 1983年、過激派テロ組織であるETAをテロする組織GAL(Grupos Antiteroristas de Liberación=反テロリスト解放グループ)が創設された。 これはテロ活動が活発化し犠牲者が急増している状況に対し、スペイン内務省が極秘に創設したものである。GALの創設は1983年だが、実際はその10年ほど前から「反ETAテロ組織」がスペイン内務省によって結成されていて、GALはその延長に創設された。
 創設後、GALはフランス警察当局へ協力するように正式要請をした。なぜなら、国境を越えればスペイン警察の手が及ぶことはないので、ETAの本部がフランスにあったのである。フランスの協力もあり、GALは解散(1987年7月)までの約4年間にフランス側バスク領内で、ETA活動家に対して40件の攻撃を行い、27名を暗殺、27名を負傷させた。
 GALのメンバーはフランス・英国・アルジェリア・ポルトガルの4カ国から20数人を集めて構成されていた。彼らは標的とした人物の重要度により、一人暗殺につき最低200万ペセタから最高1000万ペセタの報酬を支払うことを約束されていた。この活動資金源は公式には明らかにされていないが、ほぼ間違いなくスペイン内務省だと考えられている。GAL解散までの約4年間に、スペイン内務省がGALに投入した資金総額はおよそ40億ペセタといわれており、これは臨時に雇った暗殺実行部隊のメンバーに報酬として支払われたようだ。使用した武器は主にライフル銃、カービン銃、およびピストルで、車爆弾も使用された。これらのテロ方法はETAと同じである。
 当初GALは身元不明の極右テロ集団といわれていたが、最高責任者とその部下の逮捕により、政府とのつながりが問題視され、自動的に解散せざるを得なくなったのである。逮捕された二人はそれぞれ懲役100年以上の極刑に処せられ、政府側にも調査が入り、解散せざるを得なくなったのだ。
 政府の関与が明らかになった後も、政府はその事実を否認し続けた。テロに対抗するために政府がテロを選らんだという衝撃的な事件は、スペイン国民に不安をもたらせ、事実を認めなかった政府の態度に怒りを覚えたに違いない。そして、GALを創設した社会労働党政権は1996年の総選挙で政権交代を余儀なくされた。この結果は、政府への不信感の増大、GALを正当化することはできないという国民の冷静な判断、ETAのテロに対し有効な政策が取れなかった不満感などが原因となって引き起こされたものだろう。


 3.4.ETAの資金源

 ETAの主な資金源は、革命税、身代金、銀行強盗、武器取引、内部誌の発行などである。 その中でも、ETAの資金のほとんどを補っているのが革命税だ。革命税の取り立てには、まずETA執行委員会の組織である財政機構で、革命税の支払いを強要する人物または企業が選ばれる。そしてその人物または企業についての資産調査が行われる。次にそれを財政機構で協議し、最終的な要求額と支払い金額を決定し脅迫状を送るのだ。脅迫状を送られる人物、企業はバスク人またはバスクの企業といわれる。革命税の相場だが、企業もしくは経営者は平均5000万~1億ペセタ(7000万~1億4000万円)。医師、弁護士、自由業は平均500万~1000万ペセタ(700万~1400万円)。この金額は支払いを要求された人物または企業の総資産のうち1~5%。つまり先述したように、資産調査がしっかり行われ、革命税の支払いによって経済的負担や破産したりすることのないように配慮されているのである。一方、革命税を要求されると、要求された人物または企業は、金額を少しでも減らすためにETAメンバーと直接交渉するのが慣例となっている。この交渉によってかなり安い支払いで済む場合もあるらしい。基本的にETAは3回まで手紙で脅迫してくる。交渉により減額されることもあるが、3回の脅迫状を無視して支払わなければ、自宅や会社に爆弾を仕掛ける、または暗殺は免れないようだ。ちなみに、1984年7月の週刊誌「Euskadi」のアンケートによると、バスク地方の企業経営者のうち71%はすでに革命税を支払ったという報告もある。
 革命税の次に重要な資金源が身代金である。もちろん誘拐によって請求するものである。その標的は大企業の経営者や銀行のオーナーなどで、もちろん、ほとんどはバスク地方出身者である。身代金の平均相場は6億ペセタ。革命税とは比べものにならない額である。また、交渉による減額もほとんどないといっていい。一括払いだけでなく、分割払いという選択肢もあるようだが、すでに身柄が拘束されているので支払わないと確実に命は狙われることになる。簡単に資金稼ぎができる銀行強盗も資金源の1つだ。スペインはヨーロッパ諸国の中で最も銀行強盗の発生件数が多い国である。一般犯罪者による事件もあるが、ETAによる犯行も多いとされている。
by remona121 | 2007-01-09 22:07 | 卒業論文